名前 |
上野直記 |
よみ |
うえのなおき |
生年 |
文政七年(一八二四) |
没年 |
慶応元年三月十二日(一八六五) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
庄内藩士・漢学者 |
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略歴 |
父は庄内藩の小姓頭を勤めた上野平格安礼でその長男。名を安棟、号を南谷。天保14年に三百石の家督を相続。嘉永4年江戸定府となり番頭に任ぜられる。学問に秀でていたため江戸在勤中の子弟に漢学を教えたが、他藩や旗本の子弟の中にも、その名声を聞いて学びに来る者が少なくなかった。天下の情勢に通暁して尊王精神に厚く、公武合体論に共鳴して、酒井右京、松平舎人、大山庄太夫らと藩政改革を企てる。嘉永6年に改革派が老中阿部正弘に提出した藩主廃立の陳情書は、直記が起草したものであった。安政4年9月、密謀が露顕して鶴岡在勤となり、差し控えに処せられた。この時、借財を抱えていたので、一時は禄を削られて薄給生活を余儀なくされたが、万延元年用人となる。その後も同志と陰謀を巡らして幕閣への陳情運動を画策したが、事半ばにして慶応元年3月12日在職中に没した。享年42歳。慶応3年の大獄で上野家は断絶となったが、翌4年1月、家名再興を許される。弟の専右衛門は戊辰戦争に新徴組取扱として出陣、9月20日に湯沢で討死した。(三百藩家臣人名事典より)
墓碑銘は「南谷上野先生墓」。
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上野直記墓所 |
上野直記の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
赤沢隼之助 |
改革派 |
幕末の庄内藩士、海軍操練所で学ぶ |
山形県鶴岡市 |
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池田駒城 |
改革派 |
江戸時代後期の庄内藩士、改革派 |
山形県鶴岡市 |
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上野専右衛門 |
弟 |
江戸時代の庄内藩士、新徴組取り扱い |
山形県鶴岡市 |
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上野平格 |
家祖 |
江戸時代の庄内藩士、俳人 |
山形県鶴岡市 |
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大瀬準次郎 |
改革派 |
江戸時代中期の庄内藩儒 |
山形県鶴岡市 寺の場所不明 |
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大山庄太夫 |
改革派 |
江戸時代後期の庄内藩士、天保の転封騒動に功、文久の藩政改革を画策、反対派により捕らえられ自刃 |
山形県鶴岡市 |
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日下部宗伯 |
改革派 |
幕末の鶴岡の町医者 |
山形県鶴岡市 |
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酒井右京 |
改革派 |
江戸時代後期の庄内藩家老、幕末庄内藩改革派の首領、、丁卯の大獄で切腹 |
山形県鶴岡市 |
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酒井奥之助 |
改革派 |
江戸時代後期の庄内藩家老 |
山形県鶴岡市 |
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永原寛兵衛 |
改革派 |
江戸時代後期の庄内藩右筆、丁卯の大獄に連座 |
山形県鶴岡市 |
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服部毅之助 |
改革派 |
江戸時代後期の庄内藩儒家、公武合体を主張 |
山形県鶴岡市 |
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広瀬厳雄 |
改革派 |
江戸時代後期の国学者、丁卯の大獄に連座 |
山形県鶴岡市 |
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深瀬清三郎 |
改革派 |
江戸時代後期の志士、改革派、丁卯の大獄に連座、断罪される |
山形県鶴岡市 |
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松平舎人 |
改革派 |
江戸時代後期の庄内藩家老、、丁卯の大獄で自刃 |
山形県鶴岡市 |
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ゆかりの地リンク
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