掃苔帳 み 尾張藩 本草学者

名前 水谷豊文
よみ みずたにほうぶん
生年 安永八年(一七七九)
没年 天保四年三月二十日(一八三三)
場所 愛知県名古屋市千種区
分類 尾張藩士・本草家
略歴

 本草学者。通杯助六、諱を豊文、字は伯献、鉤致堂と号す。父は尾張藩士水谷友之右衛門(号覚夢)、その長子として生まれ享和二年三月家を継ぎ、禄二百石、馬廻組。同三年十月大番組、文政六年広敷詰となる。松平君山門下の本草家であった父の影響を受けて本草に志し、浅野春道、次いで小野蘭山に師事、さらに尾張初の蘭方医といわれる野村立栄から蘭学をも修める。のちに藩の薬園の監督を命ぜられ、御園町の自邸内にも植物園を作り、その種類は二千余に及んだといわれる。一方、伊勢、近江、美濃、木曾などに採集旅行も行っている。門人に大河内存真・伊藤圭介兄弟をはじめ、吉雄常三・石黒済庵・大窪昌章・舎人重巨など多くの俊秀があり、江戸・京都・美濃などの諸大家とも交友が広く、尾張本草界の中心人物となった。文政九年、江戸へ向かうシーボルトを熱田に迎え、自製の植物標本類を示した。これを機会に両者の間に交渉が始まり、シーボルトは豊文に対して高い評価を与えている。また、同志を集めて本草会を開き、相互の研究の場とし、のちに嘗百社と名づけられ、豊文の没後も続いた。天保四年三月二十日病死。著書は代表作『物品識名』『物品識名拾遺』をはじめ『本草綱目記聞』『木曾採薬記』『山草譜』などがある。天保六年、豊文三回忌追善のため同志・門人らが南寺町一行院において本草会を開催、その時の出品目録が『乙未 本草会物品目録』として出版されている。運祥院良岩宗泰居士。
 水谷家先祖代々墓に合葬。

水谷豊文の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
浅野春道 江戸時代後期の本草家、医師 名古屋市千種区
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石黒済庵 同志 江戸時代後期の医師、本草家 名古屋市千種区
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日本最初の理学博士
東京都台東区
江馬活堂 門人 江戸後期〜明治時代の医師、本草家 岐阜県
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大窪薜茘庵 同志 江戸時代中期の本草家 名古屋市千種区
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小野蘭山 江戸時代中期〜後期の本草家 東京都練馬区
柴田洞元 同志 江戸時代後期の医師、本草家 名古屋市千種区
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