掃苔帳 み 尾張藩 農政家 土木

名前 水野岷山
よみ みずのみんざん
生年 享保十九年(一七三四)?
没年 文政五年二月十六日(一八二二)
場所 愛知県名古屋市千種区
分類 尾張藩士・治水家
略歴

 名を允といい、字は士惇岷、岷山、絅斎と号した。先祖は松平忠吉、徳川義直、宗勝に仕える。千之右衛門は宗勝に仕えた林大夫将矩の第三子。幼い時より実学を修め、書をよくした。二十一歳で留書となって以来、右筆・御番と進み、さらに勘定奉行元方、杁奉行を兼ねて百五十石、廩米百石取りとなる。安永八年の庄内川の決壊のとき、藩主徳川宗睦により普請奉行に抜擢され、用人の人見弥右衛門と共に治水を進め、天明四年には庄内川の水勢を下げるため一川を疏鑿、新川と名付けた。この後も日光川を通すなど治水に力を注ぐが、予算をはるかに超過したことを理由に普請奉行の任をとかれ、五十石を減俸された。しかし、一年後岐阜奉行を命ぜられ、のち国奉行となり五十石を加え廩米二百俵となった。以後農政を主に担当し、普請奉行に再任されて小普請頭と進んだ。八十四歳の時、それまでの治水に対する功績が高く評価され、長囲炉裏番頭格に就任、二百石の世禄が認められた。文政五年二月十六日八十九歳で死去し、清体院忠山日堅の法名を持つ。
 墓碑銘は「水野岷山府君之墓」。碑文アリ。

水野岷山墓所

 
水野岷山の墓

水野岷山の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
徳川宗睦 主君 江戸時代中期の大名(尾張藩)、9代藩主。藩校明倫堂を創設 愛知県小牧市
磯野渙斎 江戸時代中期の尾張藩士、儒学者 名古屋市天白区 見あたらず
樋口好古 碑撰文 江戸時代中期〜後期の尾張藩士、農政家、「税賦参定指南」 名古屋市千種区
人見弥右衛門 同僚 江戸時代中期の尾張藩士、治水家 名古屋市昭和区
山中寛紀 部下 江戸時代中期〜後期の尾張藩士 名古屋市天白区


ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
新川 愛知県
 西春日井郡師勝町
  久地野

愛知県
 名古屋市西区
  大野木
 矢田川、庄内川は上流が窯業地帯であったため、土砂の流出が激しく、雨が降ると、すぐに洪水になった。宝暦7年、明和4年、安永8年、天明2年と災害が続き、庄内川沿いの町や村は困窮を極めた。水野千之右衛門は堀割の誓願を行い、8代藩主宗睦は水野千之右衛門を勘定奉行に、人見弥右衛門を参政にして庄内川の洪水を防ぐ工事を行った。工費は40万両を越えたが千右衛門の責任で天明7年新川の開削工事は完成した。
新川開削本陣跡 愛知県
 西春日井郡師勝町
  土器野新田
 新川開削工事を行うにあたって置かれた本陣。土器野新田庄屋役、伊藤権左衛門宅が当てられた。

 UFJ銀行尾張新川支店があるあたりになります。
水埜士惇君治水碑 愛知県
 西春日井郡師勝町
  久地野
  新川竣工から32年後の文政2年関係村民によって水野千右衛門の徳をたたえる碑が堤防上に建てられた。
新川開削者頌徳碑 愛知県
 西春日井郡新川町
  須ヶ口
新川の開削に尽力した勘定奉行水野千之右衛門と清洲総庄屋丹羽義道の功績を称え、新川開削から200年たった昭和30年頃西町地区の有志により建立された。