人物総覧 ひ 尾張藩 農政家

名前 樋口好古
よみ ひぐちよしふる
生年 寛延三年十月二十五日(一七五〇)
没年 文政九年六月一日(一八二六)
場所 愛知県名古屋市千種区
分類 尾張藩士・農政家
略歴

 字は碩果といい、通称を貞次郎、又兵衛、知足斎と号す。父は樋口又右衛門、母は羽田野氏の女。先祖は信州の人で樋口次郎兼光の裔。はじめ浪人の身であったが、二十五歳の安永三年六月、勘定方並手代に召し抱えられ、切符金五両、扶持二口取りとなる。のち、切米七石に改められ、さらに箕浦理右衛門の後を継いで元方手代となり、米二石の加増を受けた。天明三年八月国方手代、寛政四年十二月国方吟味本役と進み、加増米八石、加扶持一口となった。そして、寛政十一年八月には地方吟味役頭取を命ぜられ、百俵の足高となって大代官の事務を担当。文化五年正月大代官となり勘定吟味役頭取を兼務、文政七年十一月書物奉行に就任したのち中奥番頭となった。七十七年の人生の内、五十二年を地方行政で活躍した好古は、人望厚く、よく働き、小さなことに捕らわれず、仕事についても思い切り良く判断し実行した。時の藩主宗睦から農政担当者として登用された。また、寛政四年春より文政五年五月までの三十一年をかけて完成させた『郡村徇行記』三十九冊は、職分に役立てようと尾張全村と美濃、近江の藩領諸村を自分自身の足でまわり、記録したもので、実態を把握し職務にのぞみ、より良い地方行政をと考えた好古の姿を浮かびあがらせる。ほかに『牧民忠告解』「詩稿」などの著書がある。中奥番頭に就任して二ヵ月後の文政九年六月一日死去。本行院長遠日量の法名を持つ。七十七歳。
 墓碑銘は「樋口知足斎碩果先生之墓」、碑文あり。

樋口好古墓所

 
樋口好古の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
奥村栄発 交流 江戸時代中期〜後期の医家 名古屋市千種区 見あたらず
樋口兼光 先祖 平安時代後期の武将 三重県度会郡紀勢町
本居宣長 江戸時代中期の国学者、『古事記伝』 三重県松阪市(2カ所)