人物総覧 ひ 尾張藩 農政家 土木

名前 人見弥右衛門
よみ ひとみやえもん
生年 享保十四年(一七二九)
没年 寛政九年二月二日(一七九七)
場所 名古屋市昭和区
分類 尾張藩士
略歴

 幼名大六、つぎに五郎助。名を黍といい、字は子魚、叔魚、璣邑、竹山と号した。幕府講官人見靖安の二男として江戸に生まれた。叔父で尾張藩小納戸役の人見貞安の養子となり、九代藩主徳川完睦の近侍を勤め、宗睦の長男治休の侍講をつとめる。この時『潜竜論』を著し、人の使い方を説く。宝暦10年小納戸、安永2年(1773)治休没した後、用人となった。このとき普請奉行水野千之右衛門と協力して決壊した安達、庄内の両川を疏鑿、分流し治水工事を行った。また細井平洲とともに藩校明倫堂の学規を定めている。その後勘定奉行を兼ねると、完睦の命により農政改革をすすめ、代官所を各地に設置、天明5年に豊作となると藩主から黄金を下賜された。職を辞して引退した後も月俸を受けている。法名は松谷院機外玄鋒という。著書に「所張家宝」「長崎志」「三輪物語」「夕煙」などがある。
 墓碑銘は「松谷院殿人見府君墓」。(名古屋市史)

人見弥右衛門墓所

 
人見弥右衛門の墓
顕彰碑
墓の横にある碑(碑文はほとんど剥落)
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
水野岷山 治水 江戸時代中期~後期の尾張藩士、治水家 名古屋市千種区
徳川治休 侍講 江戸時代中期の尾張藩世子、尾張藩主徳川宗睦の長子 名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市
徳川宗睦 主君 江戸時代中期の大名(尾張藩)、9代藩主。藩校明倫堂を創設 愛知県小牧市
長谷川多仲 墓碑 江戸時代中期の馬術家 名古屋市西区
服部艸玄 交友 江戸時代中期の医師、尾張藩医、法眼 名古屋市昭和区
堀田広居 交友 江戸時代中期の国学者 名古屋市千種区 見あたらず
山川墨湖 交友 江戸時代中期の商人、文人 名古屋市千種区 見あたらず

   
ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
人見弥右衛門宅跡 愛知県
 名古屋市中区
  三の丸2丁目
愛知県庁南、東海財務局が住居跡。尾張藩史上屈指の大政治家。
明倫堂跡 愛知県名古屋市
 中区丸ノ内2-3
   那古野神社
 九代藩主宗睦が藩士の子弟の教育のため天明三年(一七八三)に設立した学問所。初代総裁は細井平洲。明治四年(一八七一)七月二十八日廃藩置県の結果廃校となった。

新川 愛知県
 西春日井郡師勝町
  久地野

愛知県
 名古屋市西区
  大野木
 矢田川、庄内川は上流が窯業地帯であったため、土砂の流出が激しく、雨が降ると、すぐに洪水になった。宝暦7年、明和4年、安永8年、天明2年と災害が続き、庄内川沿いの町や村は困窮を極めた。水野千之右衛門は堀割の誓願を行い、8代藩主宗睦は水野千之右衛門を勘定奉行に、人見弥右衛門を参政にして庄内川の洪水を防ぐ工事を行った。工費は40万両を越えたが千右衛門の責任で天明7年新川の開削工事は完成した。
新川開削本陣跡 愛知県
 西春日井郡師勝町
  土器野新田
 新川開削工事を行うにあたって置かれた本陣。土器野新田庄屋役、伊藤権左衛門宅が当てられた。

 UFJ銀行尾張新川支店があるあたりになります。
新川開削者頌徳碑 愛知県
 西春日井郡新川町
  須ヶ口
新川の開削に尽力した勘定奉行水野千之右衛門と清洲総庄屋丹羽義道の功績を称え、新川開削から200年たった昭和30年頃西町地区の有志により建立された。
蓬瀛勝会 愛知県
 名古屋市中区
  大須2-5-20
寛政7年7月に大須七寺において開かれた書画の頒布、研究会に出席している。