名前 |
山中寛紀 |
よみ |
やまなかひろのり |
生年 |
安永七年(一七七八)? |
没年 |
天保十一年十二月二十二日(一八四〇) |
場所 |
愛知県名古屋市天白区 |
分類 |
尾張藩・本草学者 |
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略歴 |
通称は新次郎、天保九年四月九日、名古屋伝馬町に生る。家世々酒商にして京口屋と称す。少うして植松茂岳の教を受け、後歌を渡忠秋に学ぶ。而して最も間島冬道と相善し、又香道を蜂谷宗意に学びて皆伝を受け、余技将棋を善くして、高段に入り、能手の称ありしも後思ふ所ありて、之を廃す。人となり識見高く、議論人の意表に出づ是む払て牙籌を執りて錙銖の利を争ふを欲せず、早く業を子九八郎に譲りて、力を公職に盡し、特に教育の為に盡す所多し。人呼びて教育狂と為すに至る。明治三十二年愛知県其多年の功労を表彰して木盃一組を賞賜す。三十五年四月七日没す、享年六十五、直斎正晴居士と法諡ず。
墓碑銘は「山中寛紀之墓」。
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山中寛紀墓所 |
山中寛紀の墓 |
山中寛紀の墓(接近) |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
水野岷山 |
上司 |
江戸時代中期〜後期の尾張藩士、治水家 |
名古屋市千種区 |
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中村習斎 |
師事 |
江戸時代中期の儒学者、蟹養斎高弟 |
名古屋市瑞穂区 |
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