名前 |
星川清晃 |
よみ |
ほしかわきよあきら |
生年 |
天保元年二月十八日(一八三〇) |
没年 |
明治二十七年十一月十一日(一八九四) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
国学者・神道家 |
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略歴 |
通称は文八・鉄之助、初名は賢直・信遷、安良居・了雪斎と号す。庄内藩給人星川清山の子。天保11年(1840)家督を継いで、普請方となる。弘化年間庄内に来た国学者鈴木重胤に入門。歌人志田義貫より語学・韻学および和歌を学び、その後に庄内国学の大家と称されるようになり、多くの門人を指導している。慶応4年(1868)戊辰戦争が起こると二番大隊に属し、分隊長として新庄・秋田方面を転戦、功により1石を加増される。明治5年(1872)松ヶ岡開墾に参加した。同7年上京、鈴木重胤門下の照井長柄、安濃固成と協力して重胤著の「日本書紀伝」を校訂、これを教部省に提出して権中講義に補されて教導職となる。明治9年から11年まで三山神社宮司を命ぜられて権大講義、この間奈良の春日神社から富田光美夫妻を招き大和舞による神楽を整備している。明治15年鶴岡神道事務分局に勤務、明治17年教導職の廃止で権少教正に補され中教正を経て同27年権大数正に補された。行年65。著書「安良居集」その他。(庄内人名辞典、大日本人名事典より)
墓碑銘は「故権大教正星川清光墓」
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星川清晃墓所 |
星川清晃の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
稲葉正邦 |
頌徳碑題額 |
幕末の大名、山城淀藩十万二千石稲葉家12代、京都所司代、徳川慶喜を補佐、幕府最後の老中、維新後華族(子爵)、神道本局初代管長 |
東京都港区 |
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大平禎作 |
弟子 |
明治期〜大正期の医者 |
山形県酒田市 |
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小杉榲邨 |
頌徳碑書 |
江戸時代後期〜明治期の国学者、徳島藩校長久館教授、維新後東京美術学校教授、国語伝習所所長など。著書に「微古雑抄」 |
東京都港区 |
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志田義貫 |
師事 |
江戸時代後期〜明治初期の歌人 |
山形県鶴岡市 |
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鈴木重胤 |
師 |
江戸時代後期の国学者、篤胤学を批判 |
東京都杉並区 |
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照井長柄 |
同門 |
江戸時代後期〜明治期の国学者、医師(神方流) |
山形県鶴岡市 |
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野坂是勇 |
孫 |
大正期〜昭和期の僧侶 |
仙台市青葉区 |
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星川清雄 |
孫 |
明治期〜大正期の日本画家、画号「輝洋」、関東大震災で死亡 |
山形県鶴岡市 |
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星川清民 |
次男 |
明治期〜昭和初期の歌人 |
山形県鶴岡市 |
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星川清躬 |
孫 |
明治期〜昭和初期の医者、文芸家 |
山形県鶴岡市 |
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本居豊穎 |
頌徳碑撰文 |
幕末〜明治時代の国学者、本居内遠の長男 |
東京都台東区 |
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ゆかりの地リンク |
場所 |
住所 |
説明 |
写真 |
松ヶ岡開墾場 |
山形県東田川郡羽黒町猪俣新田 |
開墾に参加 |
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頌徳碑 |
山形県鶴岡市常念寺 |
題額:稲葉正邦
撰文:本居豊穎
書:小杉榲邨 |
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