人物総覧 ひ
 庄内藩 出羽松山藩

名前 土方翁右衛門
よみ ひじかたおうえもん
生年 文化六年(一八〇九)
没年 明治二年七月七日(一八六九)
場所 山形県飽海郡松山町
分類 庄内藩士・松山藩付家老
略歴

 初め織人、名は達信。父は織衛達年で、物頭、百三十石。文化12年、父が没したが、織人は幼年であったため、松山藩士白井弥惣治の弟六郎が急養子となり家督相続した。文政3年織人が後嗣子となり、天保元年家督相続。弘化2年江戸で用人、同4年松山郡代、嘉永3年家老となり、二百石となる。この頃、出羽松山藩主酒井忠良は近習の者達を差別待遇して不評をかい、また政務に不熱心であった。その室光寿院は不安を抱いていたが、翁右衛門を頼りとして忠良の補佐を私信をもって依頼していた。安政2年の大地震などで藩財政が圧迫されたところに、異国船対策の武備も幕府より求められて、同4年から翁右衛門を中心とする安政の改革がすすめられた。緊縮予算・倹約令・武備充実・新規起債などでを行うと供に、庄内藩への新たな借金依頼を行った。翁右衛門は庄内藩家老杉山弓之助と交渉をねばり強く続け、成功した。更に酒田の富豪本間外衛にも、同年借金とこれまでの借金の一部について元利返済十ヵ年据え置きを申し入れた。同時に、家臣にも増上米の継続を通達して、財政の再建に必死となって取り組んだ。心労がかさなり、文久2年病にたおれ、依願退職して、弟省助に家督を譲った。(三百藩家臣人名事典より)

土方家墓所

 
土方翁右衛門の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
酒井忠方 主君 江戸時代後期の大名、出羽松山藩(松嶺藩)二万五千石酒井家6代 東京都新宿区
酒井忠良 主君 江戸時代後期の大名、出羽松山藩(松嶺藩)二万五千石酒井家7代 東京都新宿区
杉山宜満 交渉 江戸時代後期の庄内藩家老、亀ヶ崎城代 山形県鶴岡市
土方恕平 明治期〜大正期の事業家 山形県飽海郡松山町
土方民撫 明治期〜昭和期の地方自治功労者 山形県飽海郡松山町
本間光道 借金以来 江戸時代中期〜後期の豪商本間家4代、庄内藩士、鳥海山噴火の罹災民を救済 山形県酒田市