名前 |
疋田進修 |
よみ |
ひきだしんしゅう |
生年 |
元禄十三年(一七二二) |
没年 |
元文二年五月二十五日(一七三七) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
庄内藩士・儒学者 |
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略歴 |
庄内藩士松平藤八郎久照の二男として生まれる。通称を族、実名を久邦、字を子業といい、九皐と号した。家老疋田帯刀重陽の養子となり、享保五年二十二歳で一千石の家督を継いで番頭に任ぜられる。幼少の頃から学問を好み、江戸に上って山崎闇斎の高弟佐藤直方から儒学(崎門学派)を学ぶ。後に荻生徂徠の教えを受けて、その思想に共鳴し、ついに旧学を捨て、古文辞学(徂徠学) に転向した。水野元朗とは徂徠の同門で、両人の質問に対して徂徠が朱書で答えたものが『徂徠先生答問書』 である。享保十二年には儒者加藤大弐にあてて、徂徠や春台らの著書の出版状況を知らせている。穎才で将来を期待されたが、元文二年五月二十五日江戸下谷の藩邸で急死した。享年三十八歳。墓碑の碑文は太宰春台の撰文。養父帯刀の女との問に二男二女があった。進修と元朗によって初めて庄内藩に導入された徂徠学は、その後、加賀山寛猛、白井矢太夫と継承され、文化二年藩校致道館の開設に伴い、藩学としての地位を確立した。(三百藩家臣人名事典)
墓碑の没年は元文三年。
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疋田進修墓所 |
疋田進修の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
荻生徂徠 |
師 |
江戸時代初期〜中期の儒者、けん園塾を開き多くの逸材を輩出 |
東京都港区 |
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加賀山寛猛 |
弟子 |
江戸時代中期の庄内藩儒 |
山形県鶴岡市 |
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加藤大弐 |
同門 |
江戸時代初期〜中期の庄内藩家老 |
山形県鶴岡市 |
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佐藤直方 |
師 |
江戸時代初期〜中期の儒者、崎門三傑 |
東京都港区 |
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太宰春台 |
同門 |
江戸時代前期〜中期の儒者、一時岩槻藩士、経世論の春台 |
東京都台東区 |
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疋田帯刀 |
父 |
江戸時代初期〜中期の庄内藩家老 |
情報求む |
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疋田松岡 |
妹 |
江戸時代中期の才女 |
山形県鶴岡市 |
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水野元朗 |
同門 |
江戸時代中期の庄内藩家老、藩政に尽くした名家老 |
山形県鶴岡市 |
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