人物総覧 か 庄内藩

名前 加藤大弐
よみ かとうだいに
生年 寛保元年(一六七五)
没年 寛保元年八月二十四日(一七四一)
場所 山形県鶴岡市
分類 庄内藩家老
略歴

 小姓から家老まで出世した逸材加藤茂兵衛守直と妻ました(加藤氏)の長男として生まれる。初め大三郎、後に多左衛門と称し、実名を政発、啓発、字を揚甫、号を寛斎といった。貞享元年譜代名門の家老で大弐の母方の伯父に当たる加藤多左衛門正勝が子なく没した時、藩命によってその跡を継ぎ、家禄一千二百五十石を給された。時に十歳。元禄十年組頭に任ぜられ、宝永六年中老、正徳元年三十七歳で家老に進み、三百石を加増された。江戸在勤中、山崎闇斎の高弟佐藤直方について儒学を修得し、後には荻生徂徠の古文辞学派の影響を受け、庄内藩の儒学の始祖となる。昼は毎日欠かさず五十本の弓を射て、夜は四書を誦して怠ることがなかったという。家老として後世の範となる多くの事跡を残し、実家を継いだ弟の清左衛門信立とともに、文武両道に秀でた名家老といわれた。性剛直で、手のひらで鼻を逆なでするくせがあり、このしぐさをすると誰の意見も耳に入らなくなった。ある時、酒田湊で他国の米が紛失する事件があり、大弐の不在中に藩で弁償することに決定したが、病気が回復して出勤してきた大弐は、これに不服を唱え、ついに決定を覆させたという。享保十六年三月、長男の多士美政純が異母妹の松田と姦淫していたことが露顕し、家禄没収の上、蟄居に処せられた。この兄弟は大弐の手で斬罪となっている。元文五年罪を許されて生涯五十人扶持を給され、寛保元年八月二十四日に没した。六十七歳。妻おかの(家老松平武右衛門久豊の女)との間に三男六女があり、二男の衛夫政興が新知六百五十石で家を継ぎ、後に家老を勤めた。(三百藩家臣人名事典)
 墓碑銘は「實恩院釋信證居士」
 

加藤大弐の墓

加藤大弐の墓(接近)

ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
加藤衛夫 江戸時代中期〜後期の庄内藩家老、放逸派を処分 山形県鶴岡市
加藤太左衛門 養父 江戸時代初期の庄内藩家老 山形県鶴岡市
加藤多士美 長男 江戸時代初期〜中期の庄内藩士 山形県鶴岡市
加藤伝左衛門 実父 江戸時代初期の庄内藩士 山形県鶴岡市
佐藤直方 江戸時代初期〜中期の儒者、崎門三傑 東京都港区
西田新五左衛門 交渉 江戸時代初期〜中期の出羽松山藩家老 山形県飽海郡松山町
疋田進修 交友 江戸時代中期の庄内藩士、儒学者 山形県鶴岡市

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