人物総覧 た 尾張藩

名前 竹腰正信
よみ たけのこしまさのぶ
生年 天正十九年(一五九一)
没年 正保二年四月三十日(一六四五)
場所 愛知県名古屋市千種区
京都府八幡市
栃木県日光市
分類 尾張藩付家老
略歴

 尾張藩付家老。はじめ正次のち正徳、さらに正信と改める。幼名は万丸、長じて小伝次と称した。竹腰氏祖の重綱は江川大原荘十五か村の城主、子重吉は濃州大垣城主となり六万石を知行、その子重時と孫の助九郎光昌はいずれも美濃斎藤氏に仕えた。斎藤氏滅亡教、山城国紀伊郡八幡山にて正信が生まれた。祖父に養育された正信は、文禄三年から家康に仕え殊遇をうけ、慶長十二年の駿府城出火の際には病臥の家康を抱えて庭に連れ出し、小屋の棟木を抜き火を消したと『新訂寛政重修諸家譜』は記す。その後、成瀬正成とともに幕府より尾張藩の監督役たる付家老を命ぜられ、尾張藩祖徳川義直を補佐し、藩政および名古屋城築城のことを司ることになった。竹腰家の知行高は三万石で、成瀬家につぐ家柄として幕末まで累代にわたり藩政をみたのである。正信は、正保二年四月晦日、名古屋にて没す。享年五十五歳。法号を正信院安誉道輝という。

竹腰家墓所(名古屋市千種区)

竹腰正信の墓(名古屋市千種区)

竹腰正信の墓誌(名古屋市千種区)

日光市釈迦堂墓所(栃木県日光市)

竹腰正信の墓(栃木県日光市)
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
お亀の方 徳川家康の側室 名古屋市千種区
京都市左京区
京都府八幡市
竹腰成方 子息 江戸時代初期の尾張藩家老 愛知県常滑市
竹腰正晴 子息 江戸時代初期の尾張藩付家老、2代 名古屋市千種区
徳川家康 主君 室町時代〜織豊時代の大名、江戸幕府初代将軍 日光市(国宝)
静岡県静岡市
愛知県岡崎市
滋賀県大津市
大阪府堺市(伝)
伊都郡高野町(重文)
徳川仙千代 徳川家康の八男 名古屋市千種区
大阪府天王寺区
山梨県甲府市
徳川義直 弟・主君 江戸時代初期の大名(尾張藩)、初代藩主、将軍家康の九男 愛知県瀬戸市
長屋忠久 家臣 江戸時代初期の尾張藩士、弓術家(日置流竹林派) 名古屋市千種区 見あたらず 
長屋六左衛門 家臣 江戸時代前期の尾張藩士、弓術家(日置流竹林派)、三十三間堂の通し矢で天下一(三度) 名古屋市千種区
成瀬正成 同僚 江戸時代初期の下総栗原藩初代、尾張藩付家老、犬山城主成瀬家初代 名古屋市千種区
岐阜県犬山市
栃木県日光市


ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
駿府城跡 静岡県静岡市
 追手町
 慶長10年(1605)、家康は秀忠に将軍職を譲ると、駿府を隠居城と定め、慶長12年2月から駿府の町割りを開始した。10月にほぼ完成したが、12月に出火、このとき正信は病臥に伏していた家康を抱えて庭に連れ出したという。
竹腰邸跡 愛知県名古屋市
 中区丸の内2
 現在の愛知県警付近が上屋敷跡。
相応寺 愛知県名古屋市千種区
 鹿子町1-24
 寛永20年(1643)、尾張藩初代藩主徳川義直が、生母お亀の方(相応院)の菩提を弔うために山口町(現在の東区山口町のほぼ全域)に建立した浄土宗の寺院。山号は宝亀山。昭和10年(1935)現在地に移転。かつて駿河お亀の方の屋敷であった御殿があったが、戦災で消失している。お亀の方の子である竹腰正信の位牌がある。