名前 |
杉立信吉 |
よみ |
すぎたてのぶよし |
生年 |
寛政七年(一七九五) |
没年 |
弘化一年四月二十二日(一八四四) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
尾張藩士・弓術家 |
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略歴 |
七代。名は正俊。正邑の長子なり、射術を父に学び尤も之を善くす、文化十二年江戸深川三十三間堂に日失数を試み、精練の称を得、藩主之を聞きて弓役となし、廩米三十俵、足高を合せて九十八俵を給う。之より先父正邑命を受けて、深川に堂射をなして成らず、正俊深く之を憾みとし、奮勤して射術を練り、矢つて父の耻を雪がんとす。文化十四年藩に請ひて江戸に至り、四月十五日堂射を行ふ、凡堂射は日暮に始め、翌日の日暮に至るを法とす、正俊十六日中刻前に至りて既に徹矢五千三百六十八本に及び、前人を凌ぐ事十五本に至る。深川三十三間堂の法は射越を十五本と定む。是に於て敷矢を止め、更に百射をなして徹矢五十九本に及び.以て餘勇の綽々たるを示す。元禄十年酒井雅楽頭の臣町田小助、江戸一の名を掲げしより百二十年天下其有に出る者なし、然るに正俊一挙して江戸一を博せるを以て、満都の人士喧伝して古今無双といひ称讃の聾を絶たず、賈人布帛に矢の的中せると信字とを染め、称して信矢小紋といひ、市上至る処に之を鬻ぎて一時に流行す。藩主賞して使番格となし二百俵を給ふ、後増して三百俵に至り、先手物頭に進む。天保十四年父の禄百五十石を襲ひ足高を合せて三百石を給ひ、師家たること父の如し。尋で弓矢奉行となり、弘化元年四月廿二日没す、享年五十。俊箭貫一居士と法諡す、長子某家を継ぎ・次子忠重、長屋六左衛門の家の絶えたるを興して弓役となる。
墓碑銘は「俊箭貰一居士」。
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杉立家墓所 |

杉立信吉の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
杉立権右衛門 |
父 |
江戸時代後期の尾張藩士、弓術家 |
名古屋市千種区 |
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