名前 |
坂尾儀太夫 |
よみ |
さかおぎだゆう |
生年 |
宝暦十三年(一七六三) |
没年 |
嘉永四年八月九日(一八五一) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
庄内藩士・儒学者 |
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略歴 |
藩士日向新兵衛の三男として鶴岡に生まれ、坂尾甚平職房の養子となる。幼名権四郎、後に宗五郎、実名を文友、字を輔仁といい、宗呉と号した。若い頃、直指流槍術と景流居合を修得。寛政十一年に百五十石の家督を継ぐ。文化四年元締となり、江戸藩邸の財政を担当。同六年御領地御用書物を携えて庄内に下る途中、六月二十六日奥州七ヶ宿の関駅に泊まった時、旅籠屋最上屋の家族から悪口雑言を言われたのに腹を立て、亭主の長之助を無礼討ちにした。ところが仙台藩に対する庄内藩の交渉に不手際があったために紛議を生じ、翌七年二月儀太夫は知行召し上げ、永蟄居に処せられた。なお、この事件の後、幕府に無断で参勤交代の経路を変更したため、竹内派が失脚して政権が水野派に移る、という事態を惹起している。儀太夫は、蟄居中に郷土古記録の筆写に着手、この事業は、子の万年(甚平)、孫の清風と引き継がれ、庄内版辞書類従ともいうべき『大泉叢誌』百三十九巻が完成した。また四季庵と号して俳諧を嗜み、篆刻をよくし、古銭を収集するなど多趣味であった。著書に『庄内謡曲』がある。嘉永四年八月九日に八十九歳で没した。なお、坂尾家は、その後、二代にわたって致道館の儒官として名を挙げ、家名を挽回した。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は「宋呉阪尾君墓」
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坂尾家墓所 |
坂尾儀太夫の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
坂尾清風 |
孫 |
江戸時代後期の儒学者、庄内三大家の一人 |
山形県鶴岡市 |
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坂尾万年 |
子 |
江戸時代後期の庄内藩士 |
山形県鶴岡市 |
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