人物総覧 か 尾張藩 伝統武術 制剛流

名前 梶原景益
よみ かじわらかげます
生年 生年不詳
没年 天明元年九月十三日(一七八一)
場所 名古屋市千種区
分類 柔術家
略歴

 久右衛門、名は景益、初亀之助と称せり。直景の曾孫にして家世々制剛流の柔術師範たり。称して中興の達人といふ。景益軽捷、凡そ手の及ぶ所は梯子に用ひずして跳って屋に上り、又屋上より身を転じて軽く地上に坐す。曾て笠寺の観音に往詣し八町畷を過ぐ、熱田の年少無頼なるもの五人、酒を被りて往釆の人に調戯す。偶々景益の来るを見、其小躯なるを侮り、言を極めて嘲属す。景益知らざる為して過ぎ、山崎に至りて茶店に憩ふ。少年追続して至り彌々悪罵を逞うす。店主制すれども可かず、将さに景益に迫らんとす、店主、怒りて景益に謂ひて曰く、彼の無体憎むに餘あり、請ふ亟かに斬れと。景益莞爾として曰く、年少の者思慮足らず、会敢て意とせずと、少年景益を以て為す無き者とし直に打たんとす、景益其一人を執へて忽ち之を路上に抛出し、其餘の四人悉く之を屋外に擲つ。五人の者殆ど死せるものゝ如し。店主景益に請ひて曰く、彼等此処に死せば累弊家に及ばん、希くぼ回生薬を与へよと。景益曰く彼等一旦昏迷すと雖も後應さに蘇すべし、仮令ひ死するも汝が屋外に在り、過慮すること勿れ、余往きて観音に賽せん、帰る比に及ぱゝ彼等恒に復せんと、帰路店前を過ぐれば、店主迎へて曰く、果してのたまへる所の如く今漸く忙して蘇息して還れり、鳴呼貴下の伎倆何を以てか之を譬へん。真に人間の業に非ずと驚嘆之を久うす。景益、津金政巴と善し、一日政巴佩刀を示して曰く、是れ我が新に製する所、見て如何とするやと、景益熟視して曰く好刀真に羨むべし、唯惜むらくは長きに過ぐること一寸なり、請ふ之を截れと、政巴肯んぜず、政巴は抜刀術を善くし、早伎を以て世に知らる。一日出でて家に帰らんとし、途佐枝堀を過ぐ、時暮夜にして雨蕭々たり。一人あり蓑笠を被り道傍に佇立す、政巴の過ぐるを窺ひ、執へて濠中に投ず、政巴径ちに之を斬るに、蓑笠の者身を続いて之く所を知らず、政巴帳然として謂へらく、今のせ吾を濠中に投じ、且つ吾が刀刃を逃がるゝ者は久右衛門の外其人無し、是れ必ず彼が所為ならんと、仍りて往きて詰る、景益驚きて曰く余何ぞ知らん、果して然るかと、政巴曰く君に非ぎれぱ天狗の所為のみ、請ふ実を告げよと、是に於て景益蓑を出して示すに、袖端盡く断ず、曰く若し刀身短きこと一寸ならば吾何ぞ逃るゝことを得んと、政巴始めて覚り、竟に刀身を短くす、藩主之を聞きて景益に禄五十石を加ふ、天明元年九月十三日没す、顕本院環意日実居士と法諡す。(名古屋市史)
 墓碑銘は「顕本院環意日実居士」。

梶原景益墓所

梶原景益の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
梶原直景 曾祖父 江戸時代前期の柔術家(制剛流) 名古屋市千種区
梶原景明 祖父 江戸時代前期の柔術家(制剛流) 名古屋市千種区
津金理兵衛 交友 江戸時代中期の尾張藩士、剣術家(浦部流) 名古屋市千種区

ゆかりの地リンク