人物総覧 あ 尾張藩 漢詩人 官僚

名前 青木可笑
よみ あおきおかし
生年 文政八年(一八二五)
没年 明治十四年四月十五日(一八八一)
場所 東京都台東区
分類 漢学者・詩人・官吏
略歴

 字は孟純、樹堂又は鷲巣と号す。僧時の名は祖方、字は陽春。文政八年生まる。其出づる所を詳にせず。名古屋の人なり。初め[沺]流と為り、学内外の二典を究め、安政の初、来つて愛知郡大高村長壽寺の住職たり。旁ら経史を以て徒に授く。違近の緇索笈を負ひて来従するもの甚多し。是時に当りて幕政蹉跌し、国家日に多事なり。乃ち更に心を経世に留め、慷慨感憤の気、或は之を詩文に発す。一時賢豪田宮如雲・丹羽賢・松本奎堂等、皆之と遊ぶ。諷詠唱和の間、時事を談論す。藩主慶勝、其名を聞き、命じて詩を作らしめて其才を試む。則ち若干首を賦して以て献ず。慶勝、嗅嗟物を賜ひて之を賞す。後度々策を獻ずれは輙ち用ひらる。慶応二年、藩の内命を帯び、田中不二麿・丹羽腎等と共に長崎に赴き、其形勢を偵察す。明治元年、王師東征の際、藩の密使として江戸に赴き、周旋五十余日、終に慶喜をして城村を納れ、謝罪の実を表せしむるに至る。蓋し可笑与つて力ありしなり。三年冬、藩命に依り還俗して士と為り、漢学一等教授を命ぜらる。次いで樺太属に転じ、農商・会計・病院教育等の事を幹す。五年、職を辞す。八年、大蔵省租葆寮属官となり、勤労に依りて度々、褒賞を受く。十四年四月十五目病んで卒す。年五十七。谷中天王寺に葬る。官其功を追録して賻金九十円を賜ふ。蓋し異数なり。可笑吉岡氏に配して子無し。則武氏の子萬三を養ひて嗣と為す。可笑、人と為り沈実寡言、以て重事を託す可し。書窺はざる所なく、最も経国の学に志す。其官に在るや、清白強幹を以て称せらる。公暇鉛槧を事とし遂に其史稿を補修し、命じて江戸外史と曰ふ。凡十五巻。又尺牘便覧二巻、皇漢金石文字一覧二巻を著す。傍ら[口金]詠を善くし、其平生作る所の詩数千百首に下らず。公退の余、手ら之を定めて以て二巻と為す。可笑没するの後、門人相謀りて之を刻せり。(名古屋市史)
 墓碑銘は「青木樹堂墓碣銘」。墓碑(篆額:徳川慶勝、書:淅江王仁爵、撰文:鷲津宣光)。

青木可笑墓所

青木可笑の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
田中不二麿 同志 幕末の尾張藩士
維新後政治家、フランス公使
子爵。夢山
東京都あきる野市
田宮如雲 親交 江戸時代後期の尾張藩士、尊攘派の中心人物。桂園。維新後名古屋藩大参事。 名古屋市昭和区
徳川慶勝 主君
墓碑(篆額)
江戸時代後期の大名(尾張藩)、14代藩主、17代当主 愛知県瀬戸市 遺骨
東京都新宿区 空墓
丹羽賢 親交 幕末の尾張藩士、花南、森春濤四天王
維新後三重県権令、従五位。
東京都台東区
松本奎堂 親交 幕末の刈谷藩士、天誅組を組織 奈良県吉野郡東吉野村
愛知県刈谷市
鷲津毅堂 墓碑(書) 江戸時代後期の尾張藩士、儒学者、尾張藩校明倫堂督学、維新後登米県権知事、官吏 東京都台東区