人物総覧 わ 尾張藩 久留里藩 儒学者・国学者 政治家

名前 鷲津毅堂
よみ わしづきどう
生年 文政八年十一月八日(一八二五)
没年 明治十五年十月五日(一八八二)
場所 東京都台東区
分類 尾張藩儒者
略歴

  尾張藩校明倫堂督学。尾張国丹羽郡丹羽村の人。字は重光、通称郁太郎、貞助、九蔵、号は毅堂、蘇州、泉橋外史。曾祖父は医師で文人、学舎有隣舎の基礎をつくった幽林、父は幽林の孫の益斎(通称徳太郎)、母は磯貝貞。天保十三年父が三十九歳の若さで死去してから三年後の弘化元年、母に家の再興を勧められた。母が着衣の襟裏に縫いつけた紅白のこぎれを形見として、伊勢安濃津の猪飼敬所に学んだ。宣光はこの地に長くとどまらずに尾張の家に帰ってきたが、母は中江藤樹の母の故事にならって、家を閉ざして入れなかったという。宣光は弘化二年冬、江戸に出て昌平黌に学んだ。元治元年四十歳で帰郷する日まで、約二十年間母と会うことがなかったという。嘉永三年、宣光は『聖武記採要』を刊行した。清の武備の不備を説いた魏源の『聖武記』の抄録で、宣光は自序の中で「辺彊ノ責ニ任ズル者能ク是篇ヲ熟読し……」とし、日本の現状とを重ね合わせている。しかし、この出版は町奉行所のとがめるところとなり、いったん房総半島に退避している。嘉永五年頃、結城藩校の教授となったが、六月には辞任。嘉永六年ペリーが浦賀に来ると、『告詰篇』を著し、徳川斉昭に献呈した。徳川家定将軍宣下式のため勅旨が江戸に来るのを機に、藤田東湖・藤森弘庵らと攘夷の詔勅を幕府へ下させようと画策したが、これを機会として松浦武四郎・吉田松陰と親交を結ぶ。この年、宣光は上総国久留里藩に招かれ、十人扶持を得た。嘉永七年、中津藩家臣の女佐藤みつと結婚し、安政二年には精一郎が生まれたが、安政五年七月にみつは疫病のため死去。宣光はやがて中津藩士の女川田美代と再婚、二人の問に長女友、二女恒ら三男二女が生まれた。この恒が宣光の門人永井匡温と結婚、のち永井荷風を生む。安政元年以来下谷徒士町に住み、塾を開いていたが、慶応元年十一月、尾張藩の招きに応じて、明倫堂教授になるため江戸を出発。同じ鷲津家出身の親友、大沼枕山が歓送した。宣光は慶応二年、二十人扶持から百五十俵と増給し、七歳の藩主徳川義宜の読書相手および侍講となった。明倫堂教授から督学になった宣光は、村々を巡回し島民に講義を聴かせ、校内に他藩の学生の寄宿を許し、武術を盛んにする、などの改革を行った。慶応三年徳川慶勝に従って京都へ行き、幕府と薩長諸藩との間をとりもった。慶応四年八月京都総裁局の徴士となったので、明倫堂督学を辞任した。その後、太政官権弁事、大学校少丞を経て陸前国登米県の権知事となり、明治三年登米県と石巻県の合併にともない、県知事の任を解かれ、明治四年以降十五年まで司法省出仕となった。儒者とグループを組んで毎月詩筵を開いたが、仲間に三島中洲、川田甕江、重野成斎、中村敬宇らがいた。明治十四年学士会の会員になったが、胃癌のため、翌十五年十月五日、五十八歳で死去。神式の葬儀が行われ、明治十六年、門人らが向島自鬚神社に碑を建てた。宣光は小柄で少し前かがみで歩く癖があり、面長で額は広く、目は大きく濃い眉をしていて、壮年の頃には白井権八と渾名された。癇癪もちで傲慢な印象を与えることがあった。著書『親燈余影』『毅堂丙集』『薄遊吟草』。(三百藩家臣人名事典)
 

鷲津毅堂墓所

鷲津毅堂の墓

ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
猪飼敬所 江戸時代後期の大儒学者。津藩士 京都市左京区
京都市北区
三重県津市
市野天籟 門人 幕末の儒学者。維新後教師。 名古屋市千種区
大沼枕山 江戸後期〜明治中期の漢学者・漢詩人、下谷吟社 東京都台東区
岡田九 門人 幕末の尾張藩士 名古屋市千種区 見あたらず
岡田新川 江戸時代中期の儒学者、尾張藩校明倫堂督学 名古屋市千種区 岡田新川
川田甕江 親交 幕末の松山(板倉)藩士、有終館会頭、維新後宮内省諸陵頭、博物館理事、宮中顧問官 東京都文京区
榊研三 生徒 明治時代初期の教育者 駿東郡小山町
重野安繹 親交 幕末の薩摩藩士、昌平黌舎長、維新後『大日本編年史』編纂、貴族院議員 東京都台東区
徳川斉昭 献呈 江戸時代後期の大名(水戸藩)、9代、烈公、幕府海防参与 茨城県常陸太田市
徳川慶勝 主君 江戸時代後期の大名(尾張藩)、14代藩主、17代当主 愛知県瀬戸市 遺骨
東京都新宿区 空墓
徳川義宜 主君 江戸時代後期の大名(尾張藩)、16代藩主 愛知県瀬戸市 遺骨
東京都新宿区 空墓
永井荷風 大正〜昭和中期の小説家、『墨東綺譚』 東京都豊島区
東京都荒川区(筆塚)
永井久一郎 門人 明治時代の官僚、実業家、漢詩人、永井荷風の父 東京都豊島区
永井恒 次女 永井荷風の母 東京都豊島区
永坂石 門人 明治〜大正時代の医者、書家、漢詩人、森春濤四天王。 東京都新宿区
名古屋市千種区??
中村正直 親交 江戸時代後期〜明治中期の漢学者・洋学者、正直 東京都台東区
服部弾輔 親交 江戸時代後期の庄屋(大赤見村)、漢詩人 愛知県一宮市
服部牧山 親交 江戸時代後期の庄屋(大赤見村)、漢詩人 愛知県一宮市
東方芝山 親交 江戸時代後期〜明治時代の漢学者 石川県加賀市
藤井澹水 門人 明治時代の漢学者 東京都大田区
藤田東湖 親交 幕末の水戸藩士、天保の藩政改革、贈正四位 茨城県水戸市
藤森弘庵 親交 江戸後期の漢学者、播磨小野藩儒、土浦藩校郁文館教授、 東京都港区
松浦武四郎 親交 幕末の蝦夷地探検家、北海道および国郡名の名付け親 一志郡三雲町
東京都豊島区
三島中洲 親交 幕末明治大正期の漢学者〜法律家 静岡県駿東郡小山町
岡山県倉敷市
吉田松陰 親交 幕末の萩藩士、松下村塾、贈正四位 山口県下関市桜山神社境内墓地
山口県萩市護国山墓地
東京都世田谷区松陰神社
東京都荒川区回向院

    
ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
明倫堂跡 愛知県名古屋市
 中区丸ノ内2-3
   那古野神社
 九代藩主宗睦が藩士の子弟の教育のため天明三年(一七八三)に設立した学問所。初代総裁は細井平洲。明治四年(一八七一)七月二十八日廃藩置県の結果廃校となった。