名前 |
柳生清厳 |
よみ |
やぎゅうきよとし |
生年 |
元和元年(一六一五) |
没年 |
寛永十五年一月一日(一六三八) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
尾張藩士・剣術家 |
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略歴 |
名は清巌、初め権平と称す、号を任去斎、又委心といふ、如雲斎の長子なり、善く家業を継く。義直擢でて小性となし、別に禄三百石を賜ふ、幼にして読書を好み、詩歌を善くし、嘯咏自ら娯む、長じて疾あり、之を久しうして愈えず、依りて禄を辞して仕を罷め、一室に蟄居して、足地を履まず、会々肥前島原に賊起り、月を踰えて平がず、清厳之を聞き、自ら奮って曰く、吾不幸にして廃侯に嬰り、汚名身を辱しむ、豈久しく生きて人間に在らんや、命を此役に殞し、耻を雪ぎ憤を解くの愈れるに如かずと、因りて有馬の温泉に浴するに託し、竊に島原に赴き、軍監石谷十蔵貞清に請ひて、松倉右近の軍に属す、実に寛永十四年十二月二十七日なり、家人の従ふもの安藤仁兵衛儀玄、武藤太左衛門儀信、及び草履取彌蔵、槍持某なり、明年正月元日諸軍と城を攻む、清厳衆に先んじて進み、十文字槍を以て賊を殺すこと数無し、後槍を棄てゝ刀を揮ひ、舅を鼓して奮撃し、銃丸に中りて死す、儀玄儀信、及び彌蔵も亦之に死す、是より先清厳書を裁して父に貽り、其告げずして出でたるを謝し、又諸弟に嘱するに善く母に事ふるを以てす、乃ち髪を剪りて信と為す、別に一詩を書して姑夫天野四郎右衛門、及び白林寺喝堂に示す、曰く 西風一陣来、黄柳塹辞枝、看々得春色、香名不朽時。而して之を槍奴に嘱して曰く、吾戦死を期す、汝是を以て帰りて其状を告げよ、生死皆忠なりと、奴己むことを得ずして会に従ひ、清厳の死するに及びて、遺書と槍とを携へて還る、槍柄削れるが如く、坐ろに其奮闘の状を想はしむ、清巌死する時年二十四、儀玄二十五、儀信彌蔵共に二十九、法諡して韶室宗陽禅定門といふ、府下の人士之を聞きて、往きて吊し、歔欷流涕し、歎称せざるはなしといふ。
墓碑銘は「韶室宗陽禅定門」
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柳生家墓所 |

柳生清厳の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
徳川義直 |
主君 |
尾張徳川家 初代藩主
将軍家康の九男 |
愛知県瀬戸市 |
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柳生利厳 |
父 |
江戸時代前期の尾張藩士、剣術家(新陰流)、尾張柳生家の祖 |
京都市右京区 |
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柳生利方 |
弟 |
江戸時代初期の尾張藩士、剣術家(新陰流)、利厳の次男 |
名古屋市千種区 |
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浦連也 |
弟 |
江戸時代前期の尾張藩士、剣術家(新陰流)、利厳の三男、尾張柳生家の祖 |
名古屋市千種区 もともとなし |
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石谷貞清 |
交友 |
江戸時代前期の武士、江戸喜多町奉行、由比正雪の乱で丸橋忠弥らを逮捕 |
東京都狛江市 |
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