名前 |
三矢伊兵衛 |
よみ |
みつやいへえ |
生年 |
延享四年(一七四七) |
没年 |
文化元年九月二十四日(一八〇四) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
庄内藩士・儒学者 |
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略歴 |
安恵・利助・東嶺・子懐。庄内藩士遠藤矩の末子として生れ三矢陳儀の養子となる。幼少のころから才子の評あり,はじめ兵法および国学を学んだが,のち加賀山寛猛(桃李)につき儒学を修めてこれに傾倒した。その後藩命をうけ江戸で勉学に励むかたわら渋川正陽のもとで暦法を修める。安永6年(1777)100石の家督を相続して翌年公子の侍講,同8年(1779)藩主の室仙寿院付用人となって寛政3年(1791)には元締に進み藩の会計を担当した。性恭謙でみずから倹約につとめ,同5年(1793)藩主酒井忠徳に藩財政の立て直しと頽廃した士風を刷新するための意見書を提出する。功績多く30石の加増により禄130石を給された。詩文章に長じて碩学と称され,58歳のとき任地の江戸で病没,江戸にある師桃李の墓側に葬られたが後年鶴岡に移される。碑文の撰者は白井重勝(弥平)。著書「東嶺稿」2巻(庄内人名事典)
墓碑銘は「子懐三矢居士」
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三矢伊兵衛墓所 |
三矢伊兵衛の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
加賀山寛猛 |
師 |
江戸時代中期の庄内藩儒 |
山形県鶴岡市 |
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白井弥平 |
墓碑 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩儒 |
山形県鶴岡市 |
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田安仙寿院 |
主人 |
庄内藩主酒井忠徳室、田安宗武の女 |
山形県鶴岡市 |
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ゆかりの地リンク
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