人物総覧 し  庄内藩 儒学者

名前 白井弥平
よみ しらいやへい
生年 安永元年(一七七二)
没年 天保四年三月二十六日(一八三三)
場所 山形県鶴岡市
分類 庄内藩士・儒学者
略歴

 藩士長坂治右衛門行久の四男として生まれ、兄の治部右衛門重久が白井惣本家を継いだ時、その養子としてともに入籍したが、白井家に槍五が生まれたので、その弟分になり、後に分家した。実名重勝、初め弥五郎と称し、任卿・靖斎と号した。人々からは、城の西郭に住んでいたことから西郭先生と呼ばれた。幼少の頃は剣・槍・馬術を好んだが、十八、九歳から学問を志し、玉篇だけを頼りに独学して、誰からも句読を受けないで自由に漢籍を読みこなせるようになった。また書を好み、特に草書をよくした。寛政十一年異国舳打払御用筆談役を命ぜられる。享和二年に召し出されて五人扶持を給与、学問所御用を命ぜられ、致道館の創業に尽力。文化二年開校とともに典学兼助教に任ぜられた。多くの門人を養成するとともに、国許の藩主子弟の教育に当たり、また学校倹約方・御地盤方をも勤め、これらの功によって文政四年に新知百石を給された。同七年には、学校御用全般を統括するよう命ぜられて祭酒(校長)を代行した。文政二年藩命を受けて鳥海山麓の下野(後の蚕桑地村)に蚕館を建て、桑畑を開墾してその経営に当たるとともに、村民の教化にも努めた。寛大な性格で人望も厚く、相談や指導を受けに来る者が門前市をなしたという。しかし、恭敬派のために遠ざけられ、その才徳を藩政に生かすことができなかった。文化九年、学校の財政改革意見書の提出を求められた時、これ以上の節約は不可能であるとして免職を願い出たところ、差し控えに処せられた。また、ある時、学校の浮華・文弱の気風を改めるように、という内意があったのに対し、若気のあまり常軌を逸した行動に出る秀才卓抜の徒を抑圧したり、文武両道を強調しすぎて一芸に秀でた者の才能を摘み取ることになりかねないと、これを批判したという。天保四年三月二十六日在職中に没した。享年六十二歳。藩儒坂尾清風、早田知元の師。著書として『仁説』『葬祭録』『尚書諸説抄并自説』などがある。(三百藩家臣人名事典)
 墓碑銘は「故司業靖斎白先生墓」

白井弥平墓所

白井弥平の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
坂尾清風 弟子 江戸時代後期の儒学者、庄内三大家の一人 山形県鶴岡市
早田知元 弟子 江戸時代後期の儒学者 山形県鶴岡市
三矢伊兵衛 墓碑 江戸時代中期〜後期の庄内藩儒 山形県鶴岡市
和田東蔵 交友 江戸時代中期〜後期の庄内藩士、儒学者 山形県鶴岡市

ゆかりの地リンク