名前 |
小笠原吉光 |
よみ |
おがさわらよしみつ |
生年 |
生年不詳 |
没年 |
慶長十二年三月五日(一六〇七) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区、京都府中京区 |
分類 |
戦国武将・尾張藩士 |
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略歴 |
監物と称す。和泉守吉次の嫡男なり。幼より松平忠吉に仕へ、男色を以て寵幸衆に勝さる。是より先き武道に秀でたる者六十一騎を属せしめ、一万四千石を賜ふ。慶長十一年夏、意に満たざる所ありて、七月十二日、清須を去り、奥州松嶋の一寺院に蟄居す。其尾州を去るや、深く君恩に感ずる所あり。曰く、君百歳の後は我必ず殉ぜんと。是に於て居常座右に銘して、屠腹の際は旧友、山内真次に介錯を乞ふべく。若し真次支障あらば、服部小膳を嘱すべしと定む。翌年、忠吉没す。吉次の弟左京訃を報ず。三月十二日申刻、吉光凶報を領し、直に江戸に向ふ。発するに臨み、其愛蔵せる時計を寺僧に贈り、以て数月滞留の厚意に酬ゆ。十六日の夕、江戸に着し、国老阿部正致を訪ひて、君公逝去の弔辞を述べ、且つ曰く。我累年君恩を拝すること勝げて数ふ可らず。然るに少憤あつて昨年清須を売る。我甞て誓ふ、君公宿痾あるを以て、若し不幸幽冥界を隔つるが如き事あらば、我直に屠腹以て殉せんと。今や其時来れり。明日を竢ちて増上寺に詣りて決行せんとすと。正致乃ち浴湯を命ず。吉光、晩餐を先にし、而して後に浴せんことを請ふ。正致曰く、魚類、精進の両種を会ぜり。卿が好む所に任せんと。答へて曰く、君に隨従するもの奚ぞ精進するを要せんと。魚類を選びて之を食ふ。食後浴を取る。父吉次来り会す。吉次曰く、明日我寺に詣らざる可けれぱ、今宵是れ一生の別離なりと。既にして吉次去る。吉光、遺書を認めて寝に就く。翌十七日拂瑞曉、増上寺に詣す。住僧、吉光の罪を宥すの命を伝ふ。国老富永丹波、謝辞を坡露す。吉光、香を点じ、茶筅髪、白小袖・長袴の姿にて庭上に出で、立ながら屠腹す。山内真次介錯す。頸を斬ること二刀。伊達政宗を始め、在府の大名、旗下の諸土来りて之を看る。政宗嘆称して曰く、名ある者の屠腹するに当りて介錯するや、其頸を伐つ時、初に太刀斬るを礼の太刀と云ふ。次に其頸を斬る。是れ武家の故実なり。今日の介錯者は古礼を知れる者なりと。旧果一感門と諡す。(名古屋市史)
墓碑銘は「旧果一感之墓」。
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殉死者碑 |
小笠原吉光の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
石川吉信 |
同僚 |
戦国武将。三千石。松平忠吉に殉死。 |
名古屋市千種区 |
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稲垣将監 |
同僚 |
戦国武将。三千石。松平忠吉に殉死。 |
名古屋市千種区 |
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小笠原吉次 |
父 |
尾張犬山藩当主、下総佐倉藩当主、常陸笠間藩当主 |
横浜市都筑区 |
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伊達政宗 |
見学 |
戦国大名、陸奥仙台藩伊達家初代 |
仙台市青葉区
和歌山県伊都郡高野町 |
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中川清九郎 |
家臣 |
佐々記内。小笠原吉光に殉死 |
名古屋市千種区 |
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松平忠吉 |
主君 |
戦国武将、徳川家康の四男 |
愛知県名古屋市千種区
愛知県豊田市 |
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山内真次 |
親友 |
戦国武将、尾張藩士 |
名古屋市千種区 見あたらず |
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ゆかりの地リンク
増上寺 東京都 港区 芝公園4-7-35
性高院址 愛知県 名古屋市中区 大須3(現在100メートル道路になっている) |