名前 |
石川吉信 |
よみ |
いしかわよしのぶ |
生年 |
天正九年(一五八一) |
没年 |
慶長十二年三月五日(一六〇七) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
戦国武将・尾張藩士 |
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略歴 |
主馬と称す。遠江守信光の子なり。信光。松平周防守の手に属し、三・遠・駿・豆の州内に武名を顕はす。吉信は天正九年を以て沼津城に生まる。文禄三年、松平忠吉、信光の武功を嘉みし、吉信を招く。時に年十四。吉信、資性英敏にして忠吉の旨に協ひ、宿将老吏と共に章程を明にし、軍務を掌る。慶長五年、関ヶ原の役に出征し、嶋津の軍と戦ひ、勇戦して瘡を被る。時に年十九。其年禄千石を賜はる。後小笠原吉光・稲垣将監と共に諸士の長となる。国政・軍事与り聞かざるは無し。甞て将監と与に命を承けて罪人を追補す。二人朝服を脱せずして発向し、急遽之を討つ。忠吉大に之を賞し、禄を増して各、三千石と為す。其旨に忤ふや、君前に伺候するを得ざること五日又は十日。其宥さるや、必ず佩刀又は乗馬を賜はるを例とす。慶長九年忠吉病篤し。吉信、将監と互に約して、君侯百歳の後は必ず殉死すべきを誓ふ。忠吉之を聞いて固く止む。後忠吉又病み、医師高伯投薬して癒ゆるを得たり。此後忠吉、三士の誠忠を感じ、眷遇倍々厚し。慶長十二年、忠吉の江戸に病むや、吉信常に病蓐に侍す。三月五日、忠吉逝去するに及び、翌日柩に侍して増上寺に到り、柩前に自刃す。此時平岩彌五介之を介錯せり。投学善正門と諡す。(名古屋市史)
墓碑銘は「投学善正之墓」。
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殉死者碑 |
石川吉信の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
稲垣将監 |
同僚 |
織豊〜江戸時代の武将。三千石。松平忠吉に殉死。 |
名古屋市千種区 |
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小笠原吉光 |
同僚 |
織豊〜江戸時代の武将、一万四千石。松平忠吉に殉死。 |
名古屋市千種区
京都府中京区 |
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松平忠吉 |
主君 |
戦国時代の武将、徳川家康の四男 |
名古屋市千種区
愛知県豊田市 |
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ゆかりの地リンク
性高院址 名古屋市中区大須3(現在100メートル道路になっている)
終焉の地(増上寺) 東京都港区芝公園4-7-35 |