人物総覧 ほ 尾張藩 弓術家 日置流竹林派

名前 星野勘左衛門
よみ ほしのかんざえもん
生年 寛永十九年(一六四二)
没年 元禄九年五月六日(一六九六)
場所 愛知県名古屋市千種区
分類 尾張藩士・弓術家
略歴

 日置流竹林派弓術家。名は茂則、通称勘左衛門、のちに浄林と号す。伝右衛門則等の第三子。祖父長右衛門則勝は、平岩親吉の従士で、親吉の死後藩祖徳川義直(敬公)の付家老竹腰正信の家臣となった弓削衆。父則等は、義直に仕えて馬廻、大道奉行、広鋪足軽頭に任ぜられた。勘左衛門は二代藩主徳川光友(瑞公)の時、弓役となった。弓術は日置流竹林派の天下一長屋六左衛門忠重に学んだ。寛文二年五月二十八日、京都三十三間堂の大矢数を試み、通し矢六千六百六十六本(総矢数一万二十五)で天下一となった。弓頭に任ぜられ知行高五百石を賜った。次いで同九年五月二日、同所で通し矢八千本(総矢数一万五百四十二)で再度天下一の偉業を達成し、三百石加増された。翌十年十二月、黒門頭に任ぜられ、元禄六年六月には船奉行に就任した。鷹匠の富田勘左衛門、大坪流馬術の小野勘左衛門と共に尾張の三勘左と称せられた。元禄九年五月六日に没する。享年五十五歳。法名は大忠院英誉射講浄林居士。(名古屋市史)
 墓碑銘は「大忠院英誉射講浄林居士」

星野勘左衛門墓所

星野勘左衛門の墓

ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
石堂竹林 開祖 戦国・安土桃山時代の弓術家。日置流竹林派の開祖。 名古屋市千種区
小野勘左衛門 三勘左 江戸時代前期の尾張藩士、馬術家(大坪流)、
尾張三勘左の一人
名古屋市千種区
富田勘左衛門 三勘左 江戸時代前期の尾張藩鷹匠、尾張三勘左の一人 情報求む
長屋六左衛門 江戸時代前期の尾張藩士、弓術家(日置流竹林派)、
三十三間堂の通し矢で天下一(三度)
名古屋市千種区
早水藤左衛門 弟子 江戸時代前期の赤穂藩士、赤穂四十七士のひとり 東京都港区
北海道砂川市
山形県最上郡金山町
大阪市天王寺区
京都市山科区
京都市上京区
和歌山県伊都郡高野町
兵庫県赤穂市
福岡市南区
北九州市八幡西区
熊本県山鹿市
平岩親吉 主君 戦国時代〜江戸時代前期の武将 名古屋市千種区
愛知県岡崎市


ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
星野勘左衛門生誕地 愛知県幡豆郡吉良町
 宮迫字四反田
吉良町宮迫の円融寺の前の道を少し東に行ったところに立派な生誕地碑が立っています。
星野勘左衛門旧里 愛知県幡豆郡吉良町
 宮迫字四反田92
  円融寺
吉良町宮迫の円融寺境内に旧里碑が建っています。付近の住民の多くは星野姓みたいです。
星野勘左衛門宅跡 愛知県名古屋市東区
 武平町5-1
  
栄ビル付近が旧宅跡になります。道路沿いに右の写真のような碑があります。
三十三間堂 京都府京都市東山区
 三十三間堂廻町
江戸時代に全国の弓の名人が集まり、三十三間堂の軒下で的を射る「通し矢」が行われ、日本一の腕を競いました。星野勘左衛門は2度、日本一になっています。