名前 |
尾頭広居 |
よみ |
びとうひろやす |
生年 |
宝暦十二年(一七六二) |
没年 |
文政十二年九月二十二日(一八二九) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
書家 |
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略歴 |
名は備、字は順翁、通称は中書、府下広井村の産なるを以て広居と号し、或は苟用子、又は米日翁と号す。家世、豪農たり。七歳の時父を喪ひ、其母[酉蕉]せしを以て、祖父に育せらる。性臨池を好み、伊藤三橋に従つて書を学び、専ら二王を以て法と為し、殊に脩禊帖を愛し、幼より之を傚ひ、老に至て衰へず。深く其功を積む。遂に一家を成す。最も八分草書に巧なり。碑顧題記、時人多く就て之を求む。書名頗る高く、従徒日に衆し。人と為り温柔謹厚、物と逆ふこと無く、風流雅懐、世務を以て累と為さず。三橋嘗て赤津山中の龍淵を愛し、其詩を厳上に刻せんと欲せしが、果さずして没す。広居其志を継ぎ、八分を以て之を書す。其詩に曰く、「龍淵躍龍。龍今何遷。万古蒼々。但有龍淵。」恩田尨Oの記事八十三字を併書して、以て厳に勒せりと云ふ。上御園町中捏に移住し、門生日に多し。其頃盤桓子書名あり。中書は古体にして俗眼を喜ばしむるに足らず。従つて門人の数丹羽に及ぱず。世評して細楷は丹羽氏、草と八分は尾頭氏と。文政十二年九月二十二日頓に疾を、越えて二日申時、手を挙げて空に書して没す。享年六十八。(名古屋市史)
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尾頭広居墓所 |
尾頭広居の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
伊藤三橋 |
師 |
江戸時代中期の書家 |
名古屋市千種区 |
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恩田尨O |
交友 |
江戸時代後期の儒学者、継述館総裁兼藩校明倫堂教授。岡田新川の弟 |
名古屋市天白区 |
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丹羽盤桓 |
ライバル |
江戸時代後期の書家、儒者 |
愛知県稲沢市 |
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