名は房成。通称は惣三郎・五左衛門。桃嶺は号。長岡佐助房吉の養子となり、寛政六年(一七九四)家禄二百石を継いで馬廻、ついで寄合に列する。養父の房吉は尾張柳生家五代・柳生六郎兵衛厳儔の三男で、長岡五左衛門房英の養子となった人だった。桃嶺は家芸の剣術を修めるとともに、養祖父・房英より柳生制剛流居合術を伝受して指南した。尾張柳生本家の当主(道機斎厳春)が没したとき、その嗣子が幼少であったため後見となり、藩の師範を代行していた。天保四年(一八三三)隠居して家禄を子権六房懼に譲る。桃嶺は、また学問を好み、詞章にも深く通じていた。嘉永二年八月十三日没、八十六歳。法号は仙寿院真源桃嶺居士。
墓碑銘は「長岡桃嶺翁墓」。
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