名前 |
恒川宕谷 |
よみ |
つねかわとうこく |
生年 |
文政十二年(一八二九)? |
没年 |
明治四十年十月十二日(一九〇七) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
書家 |
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略歴 |
幼少の時から書を好み柳沢維賢を師として書道をはげんだ。後、京都の清水寺の僧唯明和尚にも学んだ。絶えず古碑法帖によつて書道を研究した。弘化三年(一八四六)年十七才をもつて習字の私塾を開いた。熱心な教授の方法は好評判となり、陸続として門下生は集つた。明治の学制公布の際、宕谷は門下生をひきつれて白川小学校の習字の担当教員となつた。全区の小学校二十八校の習字教員にあげられ、多くの門下生を助手として習字の奨励につくした。明治二十年(一八八七年)三月、学制は改正せられ、一定の習字帖を用いられるようになつて宕谷は自ら習字帖を編集した。宕谷が開塾して六十余年間、その門下生は二万余人といわれる。その子大造は号を鶯谷といい、宕谷死後も変わることなく隆盛をきわめた。明治の末名古屋市役所から教育功労者として表彰せられた。明治四十年(一九〇七)十月十二日七十九才で死去した。門弟のうちに名古屋の書家として名高い大島君川がある。
墓碑銘は「大夢一覚宕谷居士」。
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恒川宕谷墓所 |
恒川宕谷の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
大島君川 |
弟子 |
明治時代〜昭和初期の書家 |
名古屋市千種区 |
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柳沢維賢 |
師 |
江戸時代後期の尾張藩士、書家 |
愛知県西春日井郡西枇杷島町 |
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渡辺沙鴎 |
弟子 |
明治時代〜大正時代の書家 |
愛知県西春日井郡西枇杷島町
東京都豊島区 |
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