名前 |
高橋省助 |
よみ |
たかはししょうすけ |
生年 |
文化五年一月十六日(一八〇八) |
没年 |
明治三年一月十五日(一八七〇) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
庄内藩士 |
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略歴 |
清彦・叔英。天保4年(1833)藩校致道館の句読師となり、天保9年3人扶持を与えられる。天保12年、兄信安の死亡により家禄130石を相続して代官となる。嘉永元年(1848)郡奉行、嘉永3年町奉行、安政2年(1855)5月郡代となる。文久元年(1861)蝦夷地郡代として現地に赴任する。元治元年(1864)庄内藩が旧幕領地を拝領したとき、その処理に当る。慶応4年(1868)2月には村山郡柴橋接収の任を勤める。これらの公に加え、幕末から明治初年にかけての庄内藩の難局への対処より加増を重ねて400石高となる。在職中63歳で病死する。(庄内人名辞典)
墓碑銘は「故司農叔英高橋君之墓」
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高橋省助墓所 |
高橋省助の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
石井武膳 |
追討宥免嘆願 |
江戸時代後期〜明治初期の庄内藩士 |
山形県鶴岡市 |
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薄衣孫右衛門 |
斡旋 |
幕末の魚屋、維新後事業家 |
山形県鶴岡市 |
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田辺儀兵衛 |
追討宥免嘆願 |
幕末の庄内藩郡代、維新後酒田県官吏 |
山形県鶴岡市 |
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和田光観 |
追討宥免嘆願 |
幕末の庄内藩士、維新後官吏 |
山形県鶴岡市 |
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