名前 |
太一庵快台 |
よみ |
たいちあんかいだい |
生年 |
宝暦十二年(一七六二)? |
没年 |
嘉永元年八月二十一日(一八四八) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
俳人 |
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略歴 |
其姓氏詳ならず。初名梵阿、江戸の人なり。俳諧を雪中庵蓼太に学ぶ。既にして故ありて、江戸を去りて駿河に移り、年四十の比又尾張に来りて城北杉村の石原存古斎に依る。存古斎、梵阿の名の、其師白梵及己の名の唯阿に縁あるを悦び、遂に後継者たらしむるを約す。快台、容貌魁梧、眼光人を射、骨相凡ならず、時に雄偉の句を吐く。既にして京畿に遊び、名を麦阿と改む。唯阿没して其後を襲ひ、復快台と改め太一庵と号す。居る事十年、長崎に遊び五年にして帰る。杉村の草庵、風雨の為に壊破せられてより、常に知己の家に寄食し、転々して其居住を定めず、常に酒を愛し、人の杯酌を薦むるあれば喜で辞せず、嘉永元年八月廿一日、年八十七にして没す。碑石に秋の暮余念おこらは只の我の句を刻す、著す所、万古青春、桐實集、筋違集等あり。快台生前、知人と雖も其姓氏旧里を知るなし。或は云ふ奥州磐城平の人なりと。己に没して人其旧庵を理す。会々対函中に一記録あり。曰、余本幕府小吏の子なり、父翁一日某家に飲み、某と古刀を鑑定し論争して勝つ、某以て耻辱を受くとなし、父翁を撃殺す。余之を聞き直に赴きて某を斬り、以て仇を復す。義故士を去らざる可らず、是に於て跡を俳諧者流に韜晦す云々と、人始めて之を識り、皆其節烈に感嘆せりといふ。(名古屋市史)
墓碑銘は「太一庵快台墓」
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太一庵快台墓所(名家墓地) |
太一庵快台の墓 |
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ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
石原存古斎 |
師 |
江戸時代中期の尾張藩付家老犬山氏家士、俳人 |
名古屋市千種区 |
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大島蓼太 |
師事 |
江戸時代中期の俳人、雪中庵3代 |
東京都墨田区 |
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水野雨橘 |
弟子 |
江戸時代後期の俳人 |
名古屋市千種区 見あたらず |
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村木虎有 |
交友 |
江戸時代後期の俳人 |
愛知県犬山市 |
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