名前 |
卍凱 |
よみ |
まんがい |
生年 |
生年不詳 |
没年 |
元治元年十二月十四日(一八六四) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
僧侶 |
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略歴 |
君頤・石竜。田川郡宮曾根村(余目町)に生れる。幼少のころ鶴岡の今田氏の使用人となったが、その後飽海郡一条村普門寺で仏門に入る。その後各地を遍歴して江戸麻布の湖雲寺住職となる。理財に長じて多額の財を蓄える一方、慈悲心厚く貧民の救済に力を尽した。庄内藩江戸留守居役の大山庄太夫と交友を深め、天保9年(1838)その周旋により総穏寺第24世住職に転じる。弘化元年(1844)寺院を焼失したが自力でこれを再建した。藩主御殿普請の折には多くの植木を献上し、また上肴町が全焼したときは多量の再建資材を提供した。さらに万延元年(1860)には「土屋虎松復讐記」を板行する。鶴岡においても篤行を重ねて広く地元の人びとに感謝されたが、のちに寝所を襲った賊によって殺害された。藩政改革を企てた大山庄太夫、深瀬清三郎からの運動資金借入れ申込みを拒んだためとも宗務上の争いで末寺のうらみをうけて殺害されたのだともいう。(庄内人名辞典より)
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歴代住職墓所 |
卍凱の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
大山庄太夫 |
交友 |
江戸時代後期の庄内藩士、天保の転封騒動に功、文久の藩政改革を画策、反対派により捕らえられ自刃 |
山形県鶴岡市 |
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土屋丑蔵 |
著述 |
江戸時代後期の庄内藩士、総穏寺の仇撃 |
山形県鶴岡市 |
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土屋虎松 |
著述 |
江戸時代後期の庄内藩士の子、総穏寺の仇撃 |
山形県鶴岡市 |
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土屋万次郎 |
著述 |
江戸時代後期の庄内藩士の子、放蕩し殺害される |
山形県鶴岡市 |
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中村勘兵衛 |
推挙 |
明治期〜昭和初期の請負師 |
山形県鶴岡市 |
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深瀬清三郎 |
交友 |
江戸時代後期の志士、改革派、丁卯の大獄に連座、断罪される |
山形県鶴岡市 |
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