名前 |
本間光美 |
よみ |
ほんまこうび |
生年 |
天保七年一月五日(一八三六) |
没年 |
大正二年十二月三十日(一九一三) |
場所 |
山形県酒田市 |
分類 |
大地主・庄内藩士 |
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略歴 |
治郎太・壮吉・隼人助・外衛・市隠。大地主。酒田本間家6代当主。父は5代当主光暉(外衛)でその次男。文久3年(1863)家督を継ぎ庄内藩より家禄300石を給されて騎馬席に列する。同年前藩主酒井忠発の隠居所建築のために1万両を献金、、さらに翌年藩主酒井忠篤が長州征伐の先手を命ぜられたため、軍用金として1万両を献金している。元治元年(1864)100石加増され郡代次席となり、戊辰戦争が起こると10万両の軍資金を献金している。明治元年(1868)さらに100石加増され家禄500石となる。翌2年庄内藩主の磐城平転封阻止のため裏面工作の資金として5万両を調達して献金している。廃藩置県後は酒田県権大属、司農方生産掛、勧農掛等を歴任した。また明治8年従兄弟にあたる光貞・耕曹兄弟より相続権をめぐる訴訟が起こされたため同年40歳で隠居、家督を長子光輝に譲り7代目を相続させ、翌年10月当時の県令三島通庸の仲介(菅実秀の斡旋との説もある)で光貞側と和解した。明治21年5月本立銀行を設立して頭取に就任。また所有する農地の近代化につとめ、水稲優良品種の導入、耕地整理の推進等を行い、明治29年に乾田馬耕を普及させるため教師として飽海郡に来ていた伊佐治八郎を招聘する。翌年子の光輝とともに本間農場をつくり、保有田地は3000町歩を超えていたという。享年78。(庄内人名辞典より)
墓碑銘は「速成院釋宗徳」
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本間家墓所 |
本間光美の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
菅実秀 |
交友 |
幕末の庄内藩家老、維新後官吏、『南洲翁遺訓』を刊行 |
山形県鶴岡市 |
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本間光暉 |
父 |
江戸時代後期の豪商本間家5代、庄内藩士 |
山形県酒田市 |
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本間光貞 |
相続争い |
幕末の庄内藩士、維新後政治家(衆議院議員) |
山形県酒田市 |
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本間耕曹 |
相続争い |
幕末〜明治期の地主、庄内藩士 |
山形県酒田市 |
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本間光輝 |
長男 |
明治期〜大正期の豪商、本間家7代、育英事業 |
山形県酒田市 |
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本間光彌 |
孫 |
明治期〜昭和初期の事業家、本間家8代 |
山形県酒田市 |
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三島通庸 |
仲介 |
幕末の薩摩藩士、明治期の官僚、酒田、鶴岡、山形、福島、栃木県令、警視総監。民権運動家を弾圧 |
東京都港区 |
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ゆかりの地リンク |
場所 |
住所 |
説明 |
写真 |
山居倉庫 |
山形県酒田市
山居町1-1-8 |
明治26年旧藩主酒井家によって米保管のために建てられた酒田米穀取引所の附属倉庫。
酒田米穀取引所は本間光美の提唱によって開設されたという。
NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台でもある。館内におしんの像がある。 |
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旧本間邸 |
山形県酒田市
二番町12-13 |
本間家3代当主本間光丘が巡見使御宿として明和5年(1768)に造築し、昭和20年(1945)春まで本間家の本邸として使用された。 |
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酒井忠器
墓前灯籠 |
山形県
鶴岡市
家中新町19-12 |
向かって右側の灯籠を寄進 |
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