名前 |
秦峨眉 |
よみ |
はたがび |
生年 |
文化五年一月十三日(一八〇八) |
没年 |
寛政三年九月十二日(一七九一) |
場所 |
愛知県名古屋市昭和区 |
分類 |
尾張藩勘定奉行 |
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略歴 |
名は原丕、字は子恭、峨眉山人と号す。通称は東菰、美濃本巣郡真桑村の人なり、弱冠東遊して、業を服部南郭に受け、又書を細井広沢に学ぶ、業成りて尾張に来るや、従学する者多し。人と為り寛弘、未だ嘗て人に強ふるに其の能くせざる所を以てせず、而して薫陶の至れる。人皆覚えずして之に化す、故に賢愚となく皆愛慕す。天明二年刈谷侯土井利徳の聘に応じて、学政を督し、礼待尤も優なり。侯に従ひて江戸に往来し、且つ数々尾張に来遊す。寛政三年三月、復た来りて其子滄浪の家に在り、忽然病を発し、時を経て患えず、親属嘱する所を請ふ、乃ち曰く、吾花月に逍遙すること殆ど六十年、天幸と謂ふべし、今亦何をか言はんや、但だ吾死せば、骨を富春山に収めよと、終に臨みて詩一章を賦して曰く、死生亦大矣、孰得免其途、吾修孔子業、知命不物殊、適去白雲郷、駕鶴神気涼、此夕遊帝所、秋月桂花香、筆を投じて瞑す。時に九月十二日なり、享年七十六、滄浪及門人等、其の遺命に従ひ、且つ多く花木を家間に栽うといふ、熱田妙安寺即ち其所なり。。七十六歳。
墓碑銘は「峨眉秦先生之墓」。
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秦峨眉墓所 |
秦峨眉の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
土井利徳 |
主君 |
江戸時代中期〜後期の大名、三河刈谷藩主土井家2代 |
東京都港区 |
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秦滄浪 |
子 |
江戸時代中期の儒者、尾張藩校明倫堂教授、「国語定本」 |
名古屋市千種区 |
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服部南郭 |
師 |
江戸時代中期の儒者、漢詩人。徂徠門下の双璧。 |
東京都品川区 |
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細井広沢 |
師 |
江戸時代前期〜中期の儒者、書家 |
東京都世田谷区 |
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