名前 |
中村元勝 |
よみ |
なかむらもとかつ |
生年 |
天文十二年(一五四四)? |
没年 |
慶長十五年十一月十三日(一六一〇) |
場所 |
愛知県名古屋市熱田区 |
分類 |
戦国武将・尾張藩士 |
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略歴 |
通称は又蔵、また対馬。本州広井村の産なり。父彌右衛門元利今川氏豊に仕へて、戦死するや、元勝年尚幼なり。母氏其害に遭はんを憂ひ、村内東光寺に遺はして僧と為し、忠禅と号す。元勝人と為り、多力にして、勇材あり。年十七八、始めて父祖の事蹟を詳にし、深く自ら愧恨し、慨然として以為らく、我家世々武を以て著はれしも、廃堕こゝに至る、其れ之を何とか謂はんや。もし良王を得ば、必ず故業を再興し、以て、父祖の名を著はさんと。爾後仏に事へず、専ら射芸を習ひ、善く強弓を挽く師僧驚いて之を止むるも聴かず、大に其意に忤ふ。元勝憤を発し、弓を彎いて本堂に安置せる薬師如来の像を射以て武士と為らんことを誓ふ。遂に還俗して名を又三と改む。今川氏真、人の薦達に因つて弓役に採用す。居ること未だ幾ばくならず。適々賊党数十人ありて、其府下を過ぐ。府兵出でて之に続せしも克たず。此時に当り、元勝の蓄髪未だ長ぜす。因つて紅巾を以て抹額と為し、弓矢を執つて間道より出でて諸を前途に要し、賊の大半を射倒す。矢盡くるの後嗣を抜いて奮闘し、其魁首を斬る。勇名是に由つて始めて著はる。衆称して赤手拭と称す。是より毎戦之を用ひて、多く奇功を奏す。義元喜んで登庸して二百貫の地を与ふ。永禄十一年、武田信玄の駿河を攻むるや、今川氏累世の士悉く甲州に応ず。氏真、府中を棄てゝ遁る。元勝独り従ひて終に道州懸川に至る。翌年、家康懸川城を攻む。城主朝比奈防拒す。敵将水野忠重障壁を攀ぢんとす。元勝射て之を倒す。既にして元勝、鉄砲に中りて傷つけらる。忠重、帰つて家康に告げて曰く、今日城に入らんとして、中村の為めに射落さる。彼が弓力甚だ強しと。家康嘗て中村が赤手拭の事を聞く。故に忠重の言を信ず。氏真の北條氏婚とするに及び、元勝暇を乞ひて尾州に帰る。北畠信雄、その勇名を聞きて之を招き、天正十四年、千五百貫文の地を賜ふ。信雄、野州に謫せらるゝや、元勝扈従して行かんとす。許されず。豊臣秀次、元勝を召し二千石を与へて弓頭と為す。秀次の事あるの後は秀吉に仕へ、食村旧の如し。文禄四年、二千石の朱印を賜ふ。慶長五年、家康の上杉景勝を征するや、元勝之に従ふ。既にして石田三成挙兵の報あり。福島正則等、命を奉じて先づ尾州に帰る。元勝之が嚮導を為す。天下統一の後、松平忠吉、尾州を領して尾張衆五人を家臣と為す。乃ち元勝に三千石を賜ふ義直尾州を領するに及び、又之に属す。慶長十五年十一月十三日卒す。年六十七と諡し。(名古屋市史)
墓碑銘は「籌岩良勝居士」。
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中村元勝墓所 |
中村元勝の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
今川氏真 |
主君 |
戦国時代〜江戸時代初期の大名、今川義元の子、 |
東京都杉並区 |
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織田信雄 |
主君 |
戦国時代〜江戸時代初期の大名、織田信長の二男、北畠具房養子、大和松山藩初代 |
滋賀県蒲生郡安土町 京都市北区 奈良県宇陀郡室生村 群馬県甘楽郡甘楽町 |
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豊臣秀次 |
主君 |
戦国時代の大名、近江八幡城主、豊臣秀吉養子、関白、秀頼誕生後切腹 |
京都市左京区 京都市中京区 |
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松平忠吉 |
主君 |
戦国時代〜江戸時代初期の武将、大名、徳川家康の四男 |
名古屋市千種区 愛知県豊田市 |
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水野忠重 |
戦闘 |
戦国時代の武将、刈谷城主、刺殺 |
愛知県刈谷市 東京都港区
京都市北区
広島県福山市 |
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ゆかりの地リンク |
場所 |
住所 |
説明 |
写真 |
掛川城址 |
静岡県掛川市掛川
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今川義元の重臣朝比奈泰煕が文明年間に天王山(現在の龍華院付近)に築いたのが始まり。朝比奈氏が代々城主となる。永正10年(1513)頃に南西の竜頭山付近に新城が築かれた。
永禄11年(1568)、今川氏が武田信玄と徳川家康の侵攻に抗しきれずに、当主の今川氏真が入場、徳川家康の包囲を受ける。徳川家康は天王山を本陣として竜頭山に立て籠もる今川氏真勢を攻め、永禄12年和議により落城した。
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