人物総覧 な 戦国武将 尾張藩 大坂冬の陣 大坂夏の陣

名前 中川政盛
よみ なかがわまさもり
生年 永禄七年(一五六四)?
没年 寛永九年七月十二日(一六三二)
場所 愛知県名古屋市昭和区
分類 戦国武将・尾張藩士
略歴

 通称は勝蔵。世、伊勢の人。本氏は関、平姓たり。祖土佐守政幸、国司北畠具教に仕へて武功あり。城を一志郡中川原に築きて居る。因つて中川氏と改む。父勝助政家、亦具教に仕へて功労多し。一目敵と力闘して左手の指を堕す。爾後勇名彌、鳴る。是より人称して手棒勝助と曰ふ。政盛幼にして具教の弟木造左衛門具康の麾下は属し、動績父祖に超ゆ。成童より弱冠に至るまで、已に大小二十五戦を歴、首級を獲る凡二十六、以て其概を見る可し。天正十二年八月十五日夜、具康鋭兵百余を遣はし、蒲生氏郷が所領勢州見永村の禾稼を鈔略せしむ。政盛之が魁首たり。享畢つて返る。時に氏郷、同州松島城に在りて変を聞き、自ら甲を環して出でて之を迫ふ。政盛、畑千次郎と共に衆に先んじて身を回す。氏郷の士田中進平先づ進み、馬を下りて来り闘ふ。政盛与に倶に槍を接し、打倒して其首を取る。千次郎も亦殺獲あり。氏郷継いで馬に鞭ち来り、叱咤士卒を率獅キ。気勢極めて猛なり。政盛、其主将たるを知り、急に撃つて其馬を傷け、氏郷殆んど危し。其近臣黒川西辨、傍より之を禦ぐ。政盛怒つて西辨と闘ひ、亦之を馬上に貫き、就いて其首を斬る、氏郷間を得、遑き走る三町許、馬を山神の祠に息ふ。政盛等勝に乗じて進撃す。氏郷の兵皆殊死して戦ひ、互に贏輪あり暫くにして氏郷長槍を提げ、復来つて政盛と闘ひ、挿霍風を生じ、電光四方に閃く。政盛の槍鋩、再び氏郷の馬に中つ、馬驚いて奔逸す。政盛千次郎と共に其後に続す。敵兵五六騎前を遮る。千次郎撃つて之を走らす。氏郷且戦ひ且つ退く。政盛勇猛群を抜くと雖も然かも氏郷の[走喬]捷に如かず。故を以て志を逞ふするを得ず、乃ち撫然として兵を収む。斬る所の首と草鞋とを槍干に擔ひ、徐歩月に乗じて還る。氏郷余憤未だ散せず、遂に其備なきを見、又兵を率いて急に之を撃つ。具康の衆惶擾し、頗る死亡多し。氏郷自名を大呼し、槍を棄てゝ刀を揮ひ、奮撃して政盛を傷く。政盛亦短兵相当ること数合、亦氏郷を傷く、氏郷少しく卻く。然れども政盛創を忠ひて闘ふを欲せず、遂に亦退き還る。世に之を戸木の夜戦と称す。後政盛処士と為る。氏郷及び前田利長、其驍勇を愛し、厚禄を以て招きしも、皆応ぜす。慶長中、忠吉封を本州に移すや、政盛来り仕へ、禄七百石を食む。忠吉薨して、義直に仕へ、足軽頭たり。大坂冬夏の役従軍す。義直凱旋して賞を行ひ、禄を増して五千石に至る。寛永九年七月十二日を以て本府に病没す。年六十九。(名古屋市史)
 墓碑銘は「常勝院殿本誉源心禅定門」。

中川政盛墓所

中川政盛の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
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