名前 |
左右田武助 |
よみ |
そうだぶすけ |
生年 |
寛文四年(一六六四) |
没年 |
享保十四年五月十二日(一七二九) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
尾張藩士・剣術家 |
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略歴 |
名は邦俊。源蔵・九平・武助と称す。号は易堂、または水哉。尾張藩士左右田庄左衛門綱俊の二男。貞享三年(一六八六)召し出され、百五十石をもって鈴木伊予守の同心となる。十八歳のときから八田九郎右衛門知義に円明流を学び、三十二歳で目録、四十一歳のとき印可を受ける。皆伝になったのが年齢的に遅いように思えるが、武助は当時、達人の聞こえが高く、尾張支藩の高須侯の師範でもあった。猪谷流の免許をもつ甥の菅谷九右衛門と立ち合ったとき、武助は女竹の短いのを二本持って向かい、円曲で九右衛門を座敷の縁の下へ追い込んだ。二度目も同じく追い込まれて胸先を蹴られて倒れ、九右衛門はその場で武助の門人になった。「宮本流剣術ヲ学ビテ弟子殆ド千人」(『士林泝』)とある。享保十四年五月十二日没、六十六歳。法号は水哉軒電光円入居士。(剣術家人名辞典)
墓碑銘は「水哉軒電光円入居士」。
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左右田武助墓所 |

左右田武助の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
宮本武蔵 |
開祖 |
江戸時代前期の剣術家、「五輪書」 |
熊本県熊本市(3カ所)
北九州市小倉北区
岡山県英田郡大原町
名古屋市昭和区
千葉県市川市 |
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丹羽識江 |
門人 |
江戸時代中期の尾張藩士、手裏剣(丹羽流) |
名古屋市千種区 |
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八田九郎右衛門 |
師 |
江戸時代初期の尾張藩士・剣術家(円明流) |
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