名前 |
神戸善十郎 |
よみ |
かんべぜんじゅうろう |
生年 |
天保十一年十一月二十七日(一八四〇)
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没年 |
明治十五年七月三十日(一八八二) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
庄内藩士 |
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略歴 |
義方・小太郎。庄内藩士神戸吉右衛門(方儀)の長男として鶴岡に生れた。英才の誉れあり120石の家禄を継いで近習頭取となる。慶応4年(1868)7月戊辰戦争では二番大隊軍監兼参謀として出征した。明治3年(1870)11月旧藩主酒井忠篤が藩士70人を引連れて鹿児島に遊学した際は一行の監督となって同地に赴く。明治5年(1872)長沢顕郎とともに酒井忠篤・忠宝兄弟の海外留学に随行を命ぜられ、同年4月忠篤に随従してドイツに渡った。忠宝に従った長沢は翌6年8月病を得て帰国したが、神戸は8年にわたりドイツで留学中の忠篤兄弟に近侍するとともに、みずから法学の研究に励んだ。明治12年(1879)6月主君とともに帰朝したが、すでに世情一変して忠篤兄弟への中央雄飛の期待かなわず、将来に絶望して鶴岡南郊日枝村の自宅で自刃した。享年43。長男の壮太郎は教育者として将来を嘱望されたが早世、次男の次郎が家を継ぎのち陸軍少将となった。(庄内人名事典)
墓碑銘は「神戸義方墓」
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神戸善十郎墓所 |

神戸善十郎の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
神戸次郎 |
次男 |
明治期〜昭和初期の陸軍軍人(陸軍少将) |
山形県鶴岡市 |
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酒井忠篤 |
主君 |
幕末の大名、出羽庄内藩十四万石酒井家11代 |
山形県鶴岡市 |
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酒井忠宝 |
海外留学 |
明治時代の大名、出羽庄内藩十四万石酒井家12代、華族(伯爵)、鶴岡藩(のち大泉藩)知事 |
山形県鶴岡市 |
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長沢惟和 |
海外留学 |
幕末〜明治期の官吏、郡長を歴任 |
山形県鶴岡市 |
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