人物総覧 か 庄内藩 松ケ岡開墾 治水家

名前 加藤直矢
よみ かとうなおや
生年 嘉永二年一月二十五日(一八四九)
没年 明治二十五年二月十三日(一八九二)
場所 山形県鶴岡市
分類 治水事業
略歴

 竹三郎。庄内藩士戸田穂蔵の次男として鶴岡家中新町に生れる。兄は北海道開拓大判官をつとめた松本十郎。加藤寿平の婿養子となる。加藤家の先祖は頼母は寛永9年(1632)庄内丸岡に流謫となった旧熊本藩主加藤忠広(清正の長子)の遺臣と伝えられる。慶応4年(1868)戊辰戦争に出陣。維新後の明治5年(1872)に松ケ岡開墾に参加した。明治18年(1885)赤川の氾濫防止のため設立された赤川筋水利土功会が設立されて、内務省の河川改修工事の計画が進められると、工事掛中村正国のもと工事監督に選ばれた。施工半ばで内務省より計画変更による工事中断の方針が示されると、官と工事に携わっていた民の間に紛争が発生した。直矢はこの間に立って奔走、工事は続行となった。三川橋下流を中心とする難工事は同22年(1889)にようやく完了、竣工式は同24年(1891)6月22日に行われて、直矢は功により賞杯の賜与をうける。しかしまだ地元の費用負担等未解決など諸問題が残っており、問題解決の挺身して、遂にこれを落着させた。このとき感激の余り遺書を認めて自刃した。享年44。明治26年(1893)2月、鶴岡大宝寺松原水神社境内の赤川修治告成碑のかたわらに直矢の彰徳碑が赤川流域の人びとの手により建てられた。裏面にはその死を惜しんだ86人に及ぶ関係者の名がある。(庄内人名事典より)
 墓碑銘は「加藤直矢君墓」
 

加藤直矢墓所

加藤直矢の墓

ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
石井武雄 水利協力 幕末〜明治期の官吏、東田川郡長 山形県鶴岡市
戸田文之助 江戸時代後期の庄内藩士 山形県鶴岡市
松本十郎 幕末の庄内藩士、明治期の官吏、北海道開拓 山形県鶴岡市


ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
松ヶ岡開墾場 山形県東田川郡羽黒町猪俣新田 松ケ岡開墾に参加