名前 |
勝野良順 |
よみ |
かつのよしより |
生年 |
天保十一年七月三日(一八四〇) |
没年 |
明治三十五年十二月二十四日(一九〇二) |
場所 |
東京都台東区 |
分類 |
尾張藩士・教育家 |
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略歴 |
尾張藩士。田宮如雲の二男として生まれ、安政二年同藩士の勝野点敏の養子となる。字は倫夫、通称は釜之丞、号は素心堂。安政四年三月小姓となり、藩主慶勝に仕える。安政五年七月慶勝が安政の大獄によって退隠を命ぜられるや、江戸戸山の別邸に仕えて警備にあたったが、反対派の批判のため安政六年二月無役の使番に左遷され、帰国した。側用人として慶勝を助けた父如雲も、この年九月に蟄居・減禄させられ、父子ともに打撃を蒙った。文久二年慶勝が再起するや、良順も十一月に小姓頭取となり、慶勝の密命を帯びて、京都・大坂辺で活躍した。慶応三年冬、父如雲と共に京都にあって慶勝を助け、大政奉還・王政復古に貢献した。明治元年春、目付となった。三河の刈谷藩士で脱藩していた倉田桂太郎ら十八人の勤王派同志が佐幕派の重臣三人を斬り、尾張藩に対して藩主利教の出京と討幕派転換を嘆願した。このとき、尾張藩から刈谷に派遣された三人の中に、良順がいる。良順は刈谷藩問題を処理して、この状況を官軍先鋒の柳原副総督に知らせた。良順にとって最も得意な期間といえよう。こののち、良順は留書奉行となり、外交のことをも兼務した。同年四月旧幕側が甲斐・信濃に進出するや、成瀬正肥の指揮下の参謀として、信濃国塩尻に陣し、甲府に行き、軍事を担当した。慶勝のいる美濃太田本営および越後に出兵した諸隊と連絡をとり、同年六月に戦乱が鎮定されると、国へ帰った。同年十一月には機密にあずかり、同二年一月には寺院参知、同年七月には家知事になったが病気のため休職、十一月に徳川家の家令となった。同三年三月には名古屋藩権大参事、閏十月には再び家令に復帰した。徳川家が東京に移住すると、徳川家の顧問となった。のち、名古屋西二葉町で皇漢籍の私塾栴檀舎を開き、数百名の門下生を数えた。良順の学問は陽明学であったという。明治三十五年十二月二十四日六十三歳で死去。諡は篤行院良順日正。(名古屋市史、三百藩家臣人名事典)
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勝野良順墓所 |

勝野良順の墓 側面 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
田宮如雲 |
父 |
江戸時代後期の尾張藩士、尊攘派の中心人物。桂園。維新後名古屋藩大参事 |
名古屋市昭和区 |
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徳川慶勝 |
主君 |
江戸時代後期の大名(尾張藩)、14代藩主、17代当主 |
愛知県瀬戸市 遺骨
東京都新宿区 空墓 |
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成瀬正肥 |
上司 |
尾張藩付家老、犬山藩主、明治時代の華族(子爵) |
名古屋市千種区
岐阜県犬山市
千葉県船橋市 |
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