人物総覧 や 尾張藩 医家

名前 山田梁山
よみ やまだりょうざん
生年 宝暦二年正月(一七五二)
没年 文政十一年五月六日(一八二八)
場所 愛知県名古屋市昭和区
分類 医家
略歴

 名は筆字は貞介、梁山は其号にして、一に羅門と号す、父の名は時房、本氏は鈴木、三河の著姓なり、時房尾張に来りて、枇杷鳥の医山田重蔵の嗣となり、依りて亦山田重蔵と称す、四男二女あり、伯は梁山にして、叔は鈴木離屋なり、梁山宝暦二年正月を以て生る、弱冠にして京に遊び香川南洋に学ぶ、帰りて家を季弟良順に譲り、名古屋に出でて別に家を起す、梁山の人を活す、多く灸艾を以てす、治を請ふ者四方より来りて門に相尋ぐ、或は深夜戸を叩きて来り請ふ者あれば、僮の起くるを待たず、自ら起ちて門に応じ、走せて往きて治す、其患者を巡視する日に数十百人、風雨に遭ふも蓑笠して傘を用ひず、中年肥満して歩するに苦み、乃ち始めて轎を用ふ、老を告ぐるの後、治を求むる者猶ほ故の如く、休養すること能はず、年六十九忽ち右手の不随を覚え、喜びて云ふ、是れ天吾を休ましむるに疾を出てするなりと、然も日に自ら灸すること数百、疾も亦略々愈ゆ、其母居処時を経れば、輙ち之に厭く、染山度々其居を移して、以て其意を新にす、母又山水の画を好む、梁山多く画幅を聚め、朝夕更め掛けて以て母を娯ましむ、而して自ら用ふる所の器物は、唯用を取るに止まり、他の玩好なし、常に子弟を訓戒するに、人生の勤に在るを以てし、曰く貧は是れ富の基、富は貧の媒なりと、人の華侈を好むを見れば顰蹙して以て憫むべしと為す、善く孤窮を賑恤し、人の憂に急なること、已に於けるよりも甚し、往々人の為に艱を済ひ、紛を解き、労して徳とせず、傍ら禅を好みて、大如に参す、人其挙止の急遽なるを以て、往々之を譏る、或る者浮言を為して曰く、梁山病家に至れる時、猫其薬籠に倚り、袱上に臥す、乃ち併せ裏みて以て去ると、梁山之を聞きて笑ひて曰く、余豈に此事あらん、然れども亦自ら取る所ありと、因りて自ら裏猫道人と号す、曾て富岳を観んと欲して未だ遑あらず、一旦歳除を以て駕を命じて原、吉原の間に至り、一望して便ち反る、曰く吾が願足れりと、初め梁山の名声籍甚、藩主之を聞きて、文化十年謁を賜ひ、文政八年に至り俸三口を賜ふ、盖し優老の恩典なり、十一年五月六日没す、享年七十七、隆善院彜岳浄倫居士。四子あり、第三子貞石家を継ぐ。
 墓碑銘は「山田梁山先生墓」。


山田梁山墓所

山田梁山の墓

ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
石井隆[蒼] 三男 江戸時代後期〜明治初期の医学者 名古屋市千種区
香川南洋 江戸時代中期の医家 京都市右京区