人物総覧 や 尾張藩

名前 山澄龍騰
よみ やまずみりゅうとう
生年 不詳
没年 慶応元年四月二十七日(一八六五)
場所 愛知県名古屋市千種区
分類 尾張藩家老
略歴

 初名は豊欽、次に龍騰、後に龍官、右近と称し、後に将監、淡路守、伊予守等に改む。龍明の子、豊尚の養子にして、高木八郎左衛門の次男なり。老中に列す。文久三年八月十六日、其門前に貼附せられたる書に「前大納言樣御附御小納戸頭取堀助兵衛事、君上先年御隠居被レ遊候節、憂を共に可仕候処、大奸賊竹腰兵部少輔等に阿順致、報国有志之近侍を点け、其餘君辺之事共一、兵部少輔へ及内通昨年に至り正義之士を君側に被用候処、尚、種、佞辯を以て点け、終に君聴を塞候而己ならず、奉勒奢侈剰兵部少輔等再出をも密に相企侯段、国体を乱すの奸臣に付、速に可致退隠樣可有御周旋候。若、及遅後候に於ては可加天誅其節可処同罪者也。癸亥八月 報国忠土中」とあるに依れば、此頃竹腰党と目せられしが如し。元冶元年、慶勝諸士の土著を奨励するや、龍騰、成瀬正肥、千賀信立大道寺直良、横井時足等と共に土著懸たり。慶応元年四月二十七日卒し、大寛院松山風外と諡す。

山澄家墓所

山澄龍騰の墓

ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
生駒頼母 実子 江戸時代後期の尾張藩家老 愛知県江南市
千賀信立 同僚 江戸時代後期の尾張藩士、明治時代の陸軍軍人 愛知県知多郡南知多町
大道寺雨田 交友 幕末〜明治初期の尾張藩士、画家 名古屋市千種区
大道寺直良 同僚 江戸時代後期の尾張藩家老、青松葉事件で永蟄居 名古屋市千種区 見あたらず
高木秀真 実父 江戸時代後期の尾張藩士 名古屋市千種区
徳川慶勝 主君 尾張徳川家 14代藩主、17代当主 愛知県瀬戸市 遺骨
東京都新宿区 空墓
成瀬正肥 同僚 幕末の大名、明治時代の華族(子爵) 名古屋市千種区
岐阜県犬山市
山澄龍豊 曾祖父 江戸時代中期の尾張藩家老 名古屋市千種区
横井時保 同僚 幕末の尾張藩士。青松葉事件で刑死。 名古屋市千種区
海部郡八開村