人物総覧 や 犬山藩

名前 八木雕
よみ やぎあきら
生年 文政十一年(一八二八)
没年 明治四十三年四月三十日(一九一〇)
場所 愛知県名古屋市千種区
分類 犬山藩参政
略歴

 名古屋城北側の柳原で生まれた。通称は銀次郎。雕は名で、字は鱗之、号を華堂といった。幼少より学問に熱心で、長じて犬山藩校・敬道館の教授となった。文久2年(1862)に主君成瀬正肥の密命で江戸に赴き、幕閣らに画策して将軍継嗣問題にからみ謹慎していた尾張藩主徳川慶勝や田宮如雲らの幽閉を解くことに尽くした。次いで京都で諸藩の士と交友した。元治元年(1864)蛤御門の変による長州征伐では、正肥・如雲らと図って長州岩国に赴き、岩国藩国家老吉川監物と会見し、毛利氏謝罪を決めて無血解決に導いた。明治元年(1868)閏4月、正肥が甲州へ出兵した時は、参謀として塩尻へ向かった。明治2年犬山藩参政、明治4年明治新政府の諸陵権助に任ぜられ、従七位に叙された。同年8月諸陵寮が廃止されると、神祗省に移り、明治五年神祗省の廃止により、教部大禄となった。には9年教部省が廃されると、内務省社寺局に勤め、明治24年に官を辞した。明治26年正六位に叙され、明治28年、奈良帝室博物館の嘱託となり、明治36年正五位に叙された。官職を辞してからは名古屋に住み、詩歌を友とし、明治39年4月に岐阜県御嵩町に移りそこで没した。『華堂存稿』の著作がある。に犬山城本丸門右手に建てられたが、志水直の撰文になるものである。(三百藩家臣人名事典)
 墓碑銘は「正五位萃堂八木雕之墓」。成瀬正雄書

八木雕墓所

 
八木雕の墓

ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
吉川経幹 会談 幕末の大名、岩国藩初代藩主、「養老館」創設、四境戦争で幕軍主力を破る。 山口県岩国市
後藤喬三郎 三男 明治期〜大正期の教育家、名古屋電気学校創立 名古屋市千種区
後藤ナ二 昭和期の教育者、名古屋電気学園理事長、日本卓球協会会長 名古屋市千種区
志水直 頌徳碑 明治期の軍人(陸軍歩兵大佐)、名古屋市長、衆議院議員 情報求む
田宮如雲 同志 江戸時代後期の尾張藩士、尊攘派の中心人物。桂園。維新後名古屋藩大参事 名古屋市昭和区
成瀬正雄 明治期〜昭和期の華族(子爵)、親愛会組織 愛知県犬山市
成瀬正肥 主君 幕末の尾張藩付家老、犬山藩主、明治時代の華族(子爵) 名古屋市千種区
岐阜県犬山市
千葉県船橋市
本多雪堂 交友 幕末の尾張藩付家老成瀬家家臣、明治初期の犬山藩権大参事 岐阜県犬山市
八木秀太郎 長男 明治期の官僚 名古屋市千種区


    
ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
頌徳碑 愛知県犬山市
 犬山城
 幕末の動乱期に国事にかかわり、官軍の参謀などを務めるなど活躍し、維新後は明治政府に仕えた八木雕の頌徳碑。

大正七年九月に建てられた。撰文は志水直、書は尾張地方ではおなじみの大島徳太郎(君川)。