人物総覧 む 尾張藩 医者

名前 村瀬豆洲
よみ むらせずしゅう
生年 天保元年五月十一日(一八三〇)
没年 明治三十八年三月十日(一九〇五)
場所 愛知県名古屋市千種区
分類 尾張藩医
略歴

 名は皓、字は白石、豆洲は其号なり。本氏は堀田、幼名を彦次郎といふ。天保元年五月十一日生る。年十五村瀬立斎に従ひて医を学ぶ。立斎没して更に益斎に学び、嘉永六年業を卒へて董斎と称す。時に年二十四なり。翌年益斎没して嗣子尚ほ幼なり。依りて益斎の第二女に配し、村瀬氏を冐して改めて立斎と号す。慶応二年藩主謁を賜ひ、七月公子の病を診す。明治元年命ありて常に公子を診す、翌年擢でられて医官となり、五口俸を賜ふ。次いで侍医となりて俸十八口を増す。後藩主に東西に扈従す。是より先益斎の長子立庵を嗣とす。明治十年家を立庵に譲り、改めて豆洲と称す。十九年朝廷皇子の尚薬たらしめんとし、徴すこと再三に及ぶも病を以て辞して就かず、二十一年召命急なり。依りて東京に上る。乃ち秦任官を拝し、年金一千八百円を給ひ、浅田宗伯、福井貞憲と与に皇子昭宮を拝診す。九月三十日皇女常宮降誕したまふに及び、尚薬となる。十一月昭宮薨じ、常宮健康人に勝れたまふ。侍医洋医を以て尚薬たらしめんことを請ふあり、豆洲之を聞きて職を辞し、十二月家に帰る。時に立庵己に没し、其弟立策家を継ぐ。立庵の子甲子太郎西洋医方を学び、同じく業を開く、依りて文墨を弄して余生を娯み、明治三十八年三月十日没す、享年七十六。芥須彌界豆洲処士と法諡す。(名古屋市史より)
 墓碑銘は「芥須弥界豆洲処土」。碑文有。

村瀬家墓所

村瀬豆洲の墓

ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
浅田宗伯 同僚 江戸後期〜明治時代の医師、維新後東宮侍医、「傷寒論識」 東京都台東区
竹田宮妃昌子 患者 明治時代〜昭和初期の皇族、明治天皇の第6皇女 東京都文京区
福井貞憲 同僚 幕末〜明治時代の医師 京都市右京区
村瀬益斎 師・養父 江戸時代後期の医者 名古屋市千種区
村瀬立斎 江戸時代後期の医者 名古屋市千種区