人物総覧 ほ 戦国武将 尾張藩 伝統武術

名前 細野一雲
よみ ほそのいちうん
生年 永禄十一年(一五六八)
没年 承応一年十月十一日(一六五二)
場所 愛知県名古屋市千種区
分類 戦国武将・尾張藩馬術家
略歴

 名は成定、初め新女郎と称し、後篠兵衛と改む。兵庫介宗定の四子なり、宗定、八條近江守房繁に従ひて馬術を学び、八傭流一子相伝三巻の秘書を受く。嘗て北條高廣に属して上州厩橋城にあり、上杉謙信其名を聞き越後に招致す、謙信卒して後、景勝、景虎国を争ふ。宗定景虎に属し御館城にありて、度々軍忠あり、会々使命を受けて上州沼田に赴く。未だ帰らざるに、御館城陥りて、景虎自殺し、宗定の三千皆戦死す宗定迹を晦まし厩橋に来りて没す、成定時に歳十餘、其母之を伴ひて逃れて厩橋に来り、後平岩親吉に仕ふ。慶長十一年尾張侯義直に召され.大阪両度の役に従軍す。成定父に従ひて八條流馬術の秘伝を受け、天下一人の称あり、大阪役後、義直禄二百石を給し、成瀬隼人正同心に属し、厩別当を命ず、成定之を辞す、義直強ひて委嘱するに、百日間雇聘して厩の法式、馬の訓練等一切の事を改革せん事を以てす。成定止む事を得ず之に従ひ、遂に止りて仕ふ。義直頗る之を優遇し、更に禄百石を加ふ。成定の時、平岩親吉早馬を将軍秀忠に献す。成定之に騎し、八條流の秘を盡くす。秀忠之を褒し、賜ふに生絹の頭巾を以てす、後復馬術を将軍家光の覧に供す。家光深く之を賞し、義直に之を得む事を望む、義直惜みて事に托し遂に之に従はず、其重ぜらるゝ事此の如し。寛永十五年、成定歳七十一致仕して名を一雲と改め、禄を還す、義直親しく懇詞を下し、依然三百石を給し、無役にして身を終ふ。承應元年十月十一日、病で没す、享年八十五、一雲道二居士と法諡す。(名古屋市史)
 墓碑銘は「一雲道二居士」

細野一雲墓所

細野一雲の墓

ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
徳川義直 主君 江戸時代初期の大名(尾張藩)、初代藩主、将軍家康の九男 愛知県瀬戸市
成瀬正成 主君 江戸時代初期の大名(下総栗原藩)初代、尾張藩付家老、犬山城主成瀬家初代 名古屋市千種区
岐阜県犬山市
栃木県日光市
平岩親吉 主君 戦国時代〜江戸時代前期の武将 名古屋市千種区
愛知県岡崎市
細野篠兵衛 江戸時代初期の尾張藩馬術家 名古屋市千種区 たぶん合葬
細野次雲 江戸時代初期の尾張藩馬術家 名古屋市千種区 たぶん合葬