名前 |
林茂政 |
よみ |
はやしもせい |
生年 |
明治二年十二月二十五日(一八六九) |
没年 |
昭和十五年一月十五日(一九四〇) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
鶴岡市長 |
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略歴 |
名の正しい続み方は「しげまさ」だが、親しみを込めてもせい呼ばれる。幼名は半次郎。庄内藩士林茂明の長男として鶴岡鷹匠町に生まれる。朝暘学校、西田川郡中学校を経て鶴岡英学会で英語・数学を学ぶ。漢学者角田俊次に漢学・文章を学ぶ。明治20年(1887)福島県会津郡の小学校に授業生として勤務し、同25年(1892)帰郷し、すぐさま朝暘学校訓導となって頭角をあらわした。明治34年(1901)33歳のとき御家禄派の総帥菅実秀の推挙により前町長勝村亮恭の跡を継ぎ鶴岡町長となる。大正13年(1924)10月鶴岡に市制が施行されると引続いて鶴岡市長となる。長期間にわたって鶴岡の治政を掌握したが、昭和2年(1927)風間収入役の公金利子問題で引責辞職する。大正8年(1919)には羽前輸出織物同業組合の組合長を引受け、鶴岡の主産業とする絹織物業振興のために活躍して昭和11年(1936)にいたるまで在任、また市長退任後の昭和6年(1931)から10年まで県会議員をつとめた。(庄内人名事典)
墓碑銘は「勲六等林茂政之墓」
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林茂政墓所 |
林茂政の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
笹原貞治 |
交友 |
明治期〜昭和期の事業家 |
山形県鶴岡市 |
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菅実秀 |
交友 |
幕末の庄内藩家老、維新後官吏、『南洲翁遺訓』を刊行 |
山形県鶴岡市 |
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角田俊次 |
師 |
幕末〜大正期の漢学者、教育者 |
山形県鶴岡市 |
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林茂助 |
子 |
昭和期の理学者、鶴岡工業高等専門学校初代校長、東京工業大学名誉教授 |
山形県鶴岡市
東京都荒川区 |
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山崎剛次郎 |
交友 |
明治期〜昭和期の書家 |
山形県鶴岡市 |
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ゆかりの地リンク |
場所 |
住所 |
説明 |
写真 |
朝暘学校跡碑 |
山形県鶴岡市馬場町9-1 |
訓導 |
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