人物総覧 は 医者
鶴岡新士町に生まれる。大正4(1915)年荘内中学校を卒業して千葉医学専門学校に学ぶ。大正8年卒業すると県立千葉病院に勤務。大正10年京都帝大医学部中央レントゲン室に内地留学する。大正12年名古屋市愛知理学療養所所長、大正15年千葉医科大学(千葉医学専門学校の後身)助手などを経て昭和4年(1929)同大学附属病院医学療法科を兼務し、翌5年医学博士となる。昭和8年10月市立横須賀病院内科医長、昭和16年同病院放射線科医長となり約20年在職した。内臓器管のレントゲン診断にすぐれた業績を残して画期的新分野を開くが、長年にわたる放射線障害により両手の親指を除く全指の第一節を失う。昭和37年に左腕を切断するが、その後もみずからを実験台として研究に没頭する。昭和29年(1954)以降、全国肢体不自由児父母の会の役員として活躍、昭和39年鶴岡市より表彰をうけ「林博士記念文庫」が創設される。千葉病院で死亡し、その告別式には二千人を超える参列者があったという。 墓碑銘は「林家之墓」。側面に「謙徳院仁誉博道信雄居士」。 庄内人名辞典には没年が昭和39年11月12日となっている。
昭和38年、博士の業績をたたえて鶴岡市から庄内の著書を寄贈。その後博士からその著書と博士の蔵書が鶴岡市に寄贈された。記念に林記念文庫が鶴岡市立図書館内につくられ、昭和48年鶴岡公園に記念碑が建てられている。