名前 |
陳元贇 |
よみ |
ちんげんぴん |
生年 |
天正十五(一五八七) |
没年 |
寛文十一年六月九日(一六七一) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
陶芸・医者・漢学者・柔術 |
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略歴 |
名は 、字は義都・上昇・士升、号は元贇・東瀛子・既白山人・控 子・虎魄道人・瀛壺逸士・逸叟・玄香斎など。江戸前期の漢学者。中国明の虎村という所の人。崇禎中進士の試験を受けたが合格しなかった。そのうち国が乱れたので、それを避けるため来日した。時に寛永十五年であった。尾張侯徳川義直の知遇で尾張に来た。そののち度々京に行ったり、江戸へ来たりして、多くの名士と交わった。万治二年名古屋に於いて僧元政と親しく交わり、平生唱酬したものを集めて『元々唱和集』を編んだ。日本語が達者で元正の詩に、「君能言和語、都音舌尚在、久狎十知九、傍人猶未解」の句がある。また書もうまく、陶器作りをよくし、拳法にも巧みで、正保中は江戸西久保の国昌寺でこれを教えたという。国昌寺は明暦の大火で焼けて下高輪に移ったが、昭和初年廃寺になった。寛文十一年六月九日没。八十五歳。現在魚藍坂上の三田四丁目正山寺という寺の境内に、陳の大きな顕彰碑が立っている。なお日本に渡ってきた年については、元和七年・寛永五年・同十五年等の諸説がある。著『老子経通考』『朱子家訓抄説』『篆書千字文」など。武林既白山陳広学元贇。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は「大明国武林既白山陳広学元贇」。「既白山人遊息之処」。
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陳元贇墓所 |

陳元贇の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
徳川義直 |
主君 |
尾張徳川家 初代藩主
将軍家康の九男 |
愛知県瀬戸市 |
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石川丈山 |
親交 |
江戸時代前期の漢詩人 |
京都市左京区 |
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伊藤固庵 |
弟子 |
江戸時代前期〜中期の儒者 |
京都市中京区 |
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元政 |
親交 |
江戸時代前期の僧 |
京都市伏見区 |
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関口氏心 |
門弟 |
江戸時代前期の柔術家、関口流の祖 |
和歌山県和歌山市 |
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福野七郎右衛門 |
門弟 |
織豊〜江戸時代前期の柔術家、良移心当流の祖 |
情報求む |
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三浦義辰 |
門弟 |
江戸時代前期の柔術家、三浦流の祖 |
情報求む |
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ゆかりの地リンク |
場所 |
住所 |
説明 |
写真 |
起倒流拳法の碑 |
東京都港区
愛宕1丁目
愛宕神社境内
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安永8年(1779)起倒流拳法の末弟によって建てられた。 |
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国昌寺跡 |
東京都港区
高輪台町39
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高輪2-3(証誠寺と承教寺の間)にあった寺院。元贇は当寺に寛永二年から4年間滞在している。 |
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陳元贇邸跡 |
愛知県名古屋市東区
泉2丁目
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写真の場所付近が旧居跡のはず。史跡案内板なし。 |
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元贇焼窯跡 |
愛知県北区
名城1丁目
名城公園付近
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明から亡命し日本に帰化した元贇は将軍家綱の命で尾張の地に住んだ。尾張藩祖義直は瀬戸から陶工を招き陶器をつくっていたが、元贇もこの地で陶器を焼き、元贇焼きと呼ばれた。 |
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徳川義直廟 |
愛知県瀬戸市
定光寺373
定光寺
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慶安3年(1650)藩祖義直が江戸に没し、遺命により瀬戸の定光寺北の山上に葬られ、霊廟が建てられた。この霊廟は陳元贇の設計になるといわれ、造営物の配置は中国の儒教の式にならっている。 |
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陳元贇顕彰碑 |
東京都港区
三田4-8-10
正山寺境内
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国昌寺跡近くの正山寺境内に顕彰碑が建てられている。 |
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