名前 |
上野織右衛門 |
よみ |
うえのおりえもん |
生年 |
享保十七年(一七三二) |
没年 |
寛政五年七月二十日(一七九三) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
出羽松山藩家老 |
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略歴 |
名は安邦、字は子彦、号は百拙斎。三代藩主酒井忠休・四代忠崇に仕える。代々織右衛門を称した。父は織右衛門惺安。宝暦元年家督相続する。。明和3年庄内藩代官、同7年預地元締となる。翌年松山藩付家老となり200石。松山藩主酒井忠休は、永年幕府若年寄の要職にあり、その功により安永八年5000石加増と共に築城を許された。松山城築城は安永9年に始まり、天明7年までかかったが、その間、織右衛門は普請惣奉行に任ぜられ、庄内藩甲州流軍学者長坂十太夫にその縄張りを作らせた。領地25000石のうち城付領地は8000石しかなく、あとは左沢・上州という遠隔地であったので、人足に関して苦慮する。そこで織右衛門は庄内藩から、二ヵ年間で一万人の借用を実現すると共に、天明4年に築城期間中の左沢領6000石と庄内の幕府領6000石との村替えを幕府にはたらきかけて実現した。松山城築城工事は、藩主忠休の死もあり、三の丸の一部を残して天明7年に終了した。寛政元年、忠休の跡を継いだ忠崇を廃し、松山藩主正統血脈の回復を企てて、家老中根清語らの酒井弥市郎忠見擁立事件が発生。忠見が幕府に上訴するに及んで、藩の存亡にかかわる危機をむかえたが、織右衛門は忠崇を守り、中根らの策謀をおさえて松山藩を救った。築城費用や寛政2年の落雷による大手門の火災の再建などに多額の出費を強いられ、寛政2年に約一万両の不足金を生じた。財政再建のため織右衛門は、庄内藩郡代中田七郎兵衛、松山藩郡代阿部専右衛門を用い、寛政3年には在府足軽の削減、翌年には家中の人数削減、会計処理の厳密化、勘定組の独立、左沢領漆増植付などの政策をうち出した。これらの開拓に対し、家老中根清語らの反対があったが、中根らは藩主忠礼の怒りをかい、処分された。織右衛門は、この財政再建策遂行の最中寛政5年、62歳で没した。(三百藩家臣人名事典より)
墓碑銘は「子彦上野君墓」
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上野織右衛門墓所 |
上野織右衛門の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
阿部専右衛門 |
部下 |
江戸時代中期の出羽松山藩郡代 |
情報求む |
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上野織右衛門 |
長男 |
江戸時代中期の庄内藩士、庄内松山藩付家老 |
山形県鶴岡市 |
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上野内蔵治 |
孫 |
江戸時代後期の庄内藩士、庄内松山藩付家老 |
山形県鶴岡市 |
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酒井忠崇 |
主君 |
江戸時代中期〜後期の大名、出羽松山藩(松嶺藩)二万五千石酒井家4代 |
東京都新宿区 |
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酒井忠休 |
主君 |
江戸時代中期の大名、出羽松山藩(松嶺藩)二万五千石酒井家3代 |
山形県飽海郡松山町 東京都新宿区 |
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長坂十太夫 |
築城 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩軍学者 |
情報求む |
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中根清語 |
政敵 |
江戸時代中期の出羽松山藩家老、藩政を批判し知行取り上げ |
山形県鶴岡市 |
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