名前 |
浅井道順 |
よみ |
あさいどうじゅん |
生年 |
安永元年(一七七二) |
没年 |
弘化二年七月三日(一八四五) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
医者 |
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略歴 |
名は正剛、字は士健、斗ー、又闡斎と号し、別に紫川釣徒と号す。尾張中鳥郡四貫村に生る。本氏は徳永、即ち徳永法印の裔なり。年少うして医に志し、遊学して名を顕す。遂に其師浅井東庵の嗣となり、因りて浅井玄達と称す。後更に道順と改む。初め外科を以て藩の医員となり、後に命ありて内科を主として外科を兼ね、番医より、奥医に進む。嘗て藩主斎朝の室淑姫の病を診するが為、召に応じ急馳して江戸に下る。幕府褒するに銀を以てす、又一橋治済の病の為めに再び急馳江戸に至る。後前藩主斎朝の侍医となり、俸三百俵に至る。藩に仕ふること五十二年、江戸詰を命ぜらるゝこと二十一回に及ぶ。道順、人と為り忠厚、初め河村乾堂に従ひて漢学を修む。其江戸に在るや、医を桂川甫周に、文字を篠本竹堂に学ぶ。其桂川氏に学ぶは藩主宗睦の特に命ずる所にして、年毎に学資金十両を給ひ、七年に及ぶ。著書若干巻あり。弘化二年七月三日没す、享年七十四。義子玄三家を襲ぎ益々名を顕す。次子玄達は別に、家を成し尤も易に精し。「斗嵒先生墓」。(名古屋市史)
「浅井家之墓」に合祀。
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浅井道順墓所 |
浅井道順の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
桂川甫周 |
師事 |
江戸時代中期〜後期の医師,蘭学者、桂川家4代。大黒屋光太夫らの陳述をまとめる。 |
神奈川県伊勢原市 |
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河村乾堂 |
師事 |
江戸時代後期の国学者、儒者、河村秀根の次男 |
名古屋市千種区 |
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篠本竹堂 |
師事 |
江戸時代中期〜後期の幕臣、儒者 |
東京都豊島区 |
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徳川斉朝 |
主君 |
江戸時代後期の大名(尾張藩)、10代藩主 |
名古屋市東区 残骸のみ 遺骨は瀬戸市 |
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一橋治済 |
診察 |
御三卿一橋家の2代目当主 |
東京都台東区 |
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