名前 |
平尾数也 |
よみ |
ひらおかずや |
生年 |
明和六年(一七六九?) |
没年 |
天保四年八月十九日(一八三三) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
茶人 |
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略歴 |
諱は吉章、幼名吉次郎、のちに兼弥。家を継いで数也を名乗り、心空庵と号す。平尾家は代々尾張藩茶道方(後には数寄屋方)で、その六代目。平尾家の祖曹数也は明国の人。初代藩主徳川義直の時、浅野侯を介して、無役、義直の話相手として、切米五十石、扶持十石で召し抱えられる。寛文四年七月二十一日没。その子兼弥は、九歳より二代藩主光友に召し出され、茶道となる。また光友より平尾(平は松平の平、尾は尾張の尾)の姓を受ける。のちに茶頭小頭となり、宝永元年没。代々の数也の内、もっとも知られた六代目心空庵吉章は五代目原明の子。有楽流山本道伝幽蓬軒に茶事を学ぶ。寛政元年茶道並、同三年本役、同十二年数寄屋坊主組頭並、享和二年数寄屋頭並、文化三年同本役に進んだ。さらに文政六年、「茶道格別の功者」を認められ、徒格以上となり、天保四年には、数十年来の功労により御目見以上元高三十俵に百俵の足高を加えられる。天保四年没。享年六十五歳。心空院嶺誉宗雅居士。門人に粕屋常斎、山本道伝政教、中島円弥らがあり、待合、井筒などがその好みと伝えられる茶席心空庵が大正期まで存在した。ちょうど有楽流が尾張藩に取り入れられ、全盛を極め定着した時期にあたっている。七代目自軽院は安政三年没。八代目兼弥円心院は文久二年没。同じく尾張藩に仕えた。
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平尾家墓所 |

平尾数也(六代)の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
粕谷常斎 |
弟子 |
江戸時代後期の茶人、御数寄屋頭並 |
名古屋市昭和区 |
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中島円弥 |
弟子 |
江戸時代後期の茶人 |
情報求む |
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平尾数也 |
先祖 |
江戸時代初期の茶人、初代、明国から亡命 |
名古屋市千種区 |
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平尾数也 |
父 |
江戸時代中期の茶人、五代、尾張藩数寄屋頭 |
名古屋市千種区 |
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平尾逢吉 |
子 |
江戸時代後期の茶人、七代、尾張藩数寄屋頭 |
名古屋市千種区 |
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山本道伝幽蓬軒 |
師 |
江戸時代中期の茶人、尾張藩数寄屋頭 |
名古屋市千種区 見あたらず |
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山本道伝 |
弟子 |
江戸時代後期の茶人、尾張藩数寄屋頭 |
名古屋市千種区 |
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