名前 |
山沢谷右衛門 |
よみ |
やまざわたにえもん |
生年 |
弘治二年(一五五六) |
没年 |
寛文十二年一月十三日(一六七二) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
帰化人 |
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略歴 |
朝鮮王子の侍臣といわれ、7万3000石を領した。コクヒ将軍(一説ではホホハ、墓碑にはコクヒとある)と称される。朝鮮征伐のとき武将加藤清正の軍に捕われて人質となり、供人4人を連れて日本に帰化する。このとき山沢谷右衛門の名を秀吉から拝領する。関ヶ原の戦いの後、徳川家康の命で酒井忠次に預けられ、下総碓井で13石4人扶持を与えられた。元和8年(1622)酒井忠勝に随従して庄内に移り、8石2人扶持を与えられ、仲間頭をつとめた。庄内では鶴岡最上町に住み、正保3年(1646)91歳で隠居。谷右衛門の両耳には耳環の穴があり、没年齢は117(墓碑も同じ)と伝えられる。子孫も代々谷右衛門と称して酒井家に仕える。(庄内人名辞典より)
墓誌に「玄峯浄通信士」、墓誌裏に略歴が彫られている。
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山沢谷右衛門墓所 |

山沢谷右衛門墓誌拡大 |

山沢谷右衛門一族旧墓 |

山沢谷右衛門の墓誌裏の碑文 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
加藤清正 |
文禄・慶長の役 |
戦国時代の武将、江戸時代前期の大名、賤ケ岳の七本槍のひとり、文禄・慶長の役に出兵、関ケ原の戦いののち肥後国領主、熊本城を築く |
熊本県熊本市 山形県東田川郡櫛引町 東京都大田区 |
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酒井忠勝 |
主君 |
江戸時代初期の大名、越後高田藩、信濃川中島藩、出羽庄内藩十四万石酒井家初代 |
山形県鶴岡市 |
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酒井忠次 |
お預け先 |
戦国時代の武将、三河吉田城主、徳川四天王のひとり |
山形県鶴岡市 京都府東山区 |
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