名前 |
山下氏勝 |
よみ |
やましたうじかつ |
生年 |
永禄十一年四月六日(一五六八) |
没年 |
承応二年十一月二十日(一六五三) |
場所 |
愛知県名古屋市昭和区 |
分類 |
尾張藩士 |
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略歴 |
幕府役人。姓は藤原、幼名万寿丸、のち半三郎。山下大和守時慶の子として、永禄十一年四月六日、飛騨荻町城に出生。先祖は鎌足十五世孫下野大掾政光であった。壮年になり徳川家康に仕え、小田原の役に先鋒を務め、文禄慶長の役では名護屋に随行した。近江国蒲生郡に領地をもらうなど特に目をかけられ、慶長七年家康の九男で尾張藩祖となる義直の傅役に任ぜられる。義直の母相応院が氏勝の妻の姉であったことからの命である。慶長十二年義直の尾張藩入封の際、軍備上のことなどから居城を清須より名古屋へ移すよう家康に進言、認められ、世に言う清須越しが決定された。尾張藩士としては馬廻組頭を命ぜられ、歩行、鉄砲足軽を統割し、義直を助けた。また、大坂夏の役では功績が高く認められ、尾張藩士で唯一、家康より五百石の加増を受けた。元和九年饗応惣奉行、寛永六年惣奉行、同十年大寄合組頭を歴任するが、寛永十九年眼病を患い失明したため、その子氏政に家督を譲り隠居、剃髪し道智と号した。家康の側室で、義直の母相応院の妹である志水加賀守宗清の女を妻に、長男氏政をはじめ氏忠、氏紹、秀氏、時氏の五男三女をもうけた。承応二年十一月二十日死去。法名を光遠院道智日賢という。
墓碑銘は「南無妙法蓮華経 光遠院道智日賢預修」
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山下氏勝墓所 |
山下氏勝の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
徳川家康 |
主君 |
室町時代〜織豊時代の大名、江戸幕府初代将軍 |
日光市(国宝) 静岡県静岡市 愛知県岡崎市 滋賀県大津市 大阪府堺市(伝) 伊都郡高野町(重文) |
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徳川義直 |
主君 |
江戸時代初期の大名(尾張藩)、初代藩主、将軍家康の九男 |
愛知県瀬戸市 |
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