人物総覧 と 庄内藩

名前 富田善四郎
よみ とみたぜんしろう
生年 嘉永四年四月二十九日(一八五一)
没年 明治三十六年十二月二十九日(一九〇三)
場所 山形県鶴岡市
分類 庄内藩士・酒井忠宝家職
略歴
 名は利騰※1。庄内藩士金谷橋剛太の次男。のち藩士富田甚右衛門の養子となる。幼少のころより藩主酒井忠篤の近習をつとめ、明治3年(1870)12月、同藩の服部俊太郎、加藤元弥、水野弥太郎とともに勝山重良に引率されて上京、外国語学校で英語やドイツ語を学んだ。その後開成学校に転じ、のちに東大総長となった浜尾新の知遇を得て勉学に励んだが、加藤元弥とともに官途に望みを断って鶴岡に戻った。のち酒井忠宝の家職をつとめ、53歳で没した。(庄内人名辞典などより) 

 ※1当初、「利勝」と書いていましたが、「利騰」の誤りでしたので訂正します。(富田さまご指摘)

富田善四郎墓所

富田善四郎の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
勝山重良 引率 幕末の庄内藩士、維新後官吏 山形県鶴岡市
加藤元弥 遊学 明治時代の教育者、酒井忠篤家職 山形県鶴岡市
酒井忠篤 主君 幕末の大名、出羽庄内藩十四万石酒井家11代 山形県鶴岡市
酒井忠宝 主君 明治時代の大名、出羽庄内藩十四万石酒井家12代、華族(伯爵)、鶴岡藩(のち大泉藩)知事 山形県鶴岡市
服部俊太郎 遊学 明治初期の学究 東京都台東区
浜尾新 知遇 明治期から大正時代の教育家、第2次松方内文部大臣、東京帝大総長、枢密院議長 東京都豊島区